文芸の大衆化



 というのは、日中開戦(1937年)以降の中国において、共産党が常に問題としてきたテーマである。文学者や芸術家が、一般大衆を離れて独自の世界に閉じ籠もることは良くない、文学・芸術は大衆に受け入れられ、社会変革のための道具となってこそ価値がある、という論理である。これは、ある意味で二律背反の問題だ。大衆は卑俗なものを好み、文芸家は高尚なものを目指すからである。それで言葉が悪ければ、大衆は様式化、一般化したものを好み、文芸家は独創的なものを目指す、と言い換えてもいい。

 どちらがいいとか悪いとか、一概には言えない。独創的なものを目指さなければ、人類としての進歩・発展(=人間についての新しい発見)はないが、一方で、文芸はより多くの人々の生活を豊かにするものであるべきだからである。文学者・芸術家が大衆の存在を意識し、彼らと自分たちとの関係を模索していてこそ、両立は実現するに違いない。

 変な口上を書いた。週末に遊びほうけていて、後は「仕事、仕事・・・」と書いたのも束の間、昨日は、学校をほんの少しだけ早退して、佐渡裕指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏を聴きに仙台に行っていた。曲目は、ウェーバーベルリオーズ編曲)「舞踏への勧誘」、ショパン・ピアノ協奏曲第2番(独奏:ニコライ・ボジャノフ)、ブラームス交響曲第2番。

 開演時間になったら、佐渡裕が一人でステージに現れた。最近よくあるプレトークというやつである。私はあまり好きではない。音楽家は音楽している時が一番能弁である、もしくは能弁であるべきであって、言葉で語るとひどく凡庸、がっかりすることが少なくないからだ。余計なことはやめて、音楽に専念してくれればいいのに、と思う。

 ところが、「題名のない音楽会」をプロデュースし、司会も務める半芸能人・佐渡裕はさすがである。きっちり10分で、大変まとまりとメリハリのある話をした。しかも、話の途中で宮城県出身のメンバーをステージに呼び出して紹介し、短い曲を一曲弾かせて拍手をもらうという演出付きである。これはなかなかやるなぁ、と感心した。あまり「余計なことを」とは思わずに済んだ。

 ブラームスが終わり、拍手で2度呼び出されると、アンコールである。佐渡に先立って、トランペット奏者が1人とハープ奏者がステージに出てきたので、お決まりの「ハンガリー舞曲」でないことが分かって、ほっとした。私は、アンコールとしての「ハンガリー舞曲」や「スラブ舞曲」にうんざりしているのである。私の心を見透かすように、指揮台に上って拍手を遮った佐渡が、「アンコールを何にしようかと思ったが、ブラームス交響曲の後にハンガリー舞曲という定番もちょっと・・・」みたいなことを言ったので、「やるなぁ」と思い、私の期待はにわかに高まった。彼は「みなさんに花束を贈るつもりで・・・」と続けたので、私はチャイコフスキーの「花のワルツ」であると確信した。ところが、彼が指揮棒を動かすと、知らない曲が始まった。イントロが終わってメロディーが出てくると、曲の途中で拍手が湧き起こった。なんとそれは、「すみれの花咲く頃」、そう、あの宝塚のテーマソングであった(宮川彬良編曲)。あの悪く言えば甘ったるい通俗的なメロディーが手を変え品を変えて繰り返され、最後はみんなで手拍子。私は、「え?あのブラームスは何だったの???」と思いながら聴いていた(見ていた)。だけど、私以外のお客さんは多分、非常に喜んだのだろうと思う。(実は、私も「すみれの花咲く頃」という曲(歌)は大好きである。ブラームスの後のアンコール曲としては違和感があった、というだけ。)

 思えば、プログラムノートも、無料で配られる(料金のうち、と言うのが正確)ものにしては、ひどく凝った作りであった。紙は上質で、きれいな写真がたくさん使われ、ただの解説ではなく、出演者のインタビュー記事を中心に、読み物として上手くまとめられているのである。

 といったことを見ながら、私の頭に浮かんだのが、タイトルである「文芸の大衆化」というスローガンであった。もちろん、ショパンブラームスを聴きに来ているわけだから、聴衆も芸術とは無縁の「大衆」というわけではない。しかし、中にはクラッシック音楽は分からないが佐渡裕のファンだ、という人はいるだろうし、今書いてきたようないろいろなサービスを喜び、佐渡なり兵庫芸術センター管弦楽団のファンになっていく人もいるのだろう。私などは、「音楽の質」以外のファンサービスををどうでもいいと思うし、邪道だとも思う。ブラームスの後のアンコールに宝塚ソングは本当にご勘弁願いたいと思うのだが、それも定期演奏会27公演(9プログラム×3日)、2000席のホールが常に満席、定期会員数4900名超という実績を前にしては、文句が言えない。いや、賞賛するしかないではないか。彼らなりに、自分たちの芸術を、質を落とすことなく大衆化させるための方法を模索する努力をし、成功しているのだ。

 初めて聴いた兵庫芸術センター管弦楽団は、音の汚い、管楽器が不揃い(不安定)な、けっして優秀でも魅力的でもないオーケストラだったけれど、芸術とはどうあるべきものか、ということを考えるためのいい材料ではあった。ボジャノフは極めて優れたピアニスト。特に弱音の小ささ、粒のそろい方、音の美しさは比類がない。非常に個性的、悪く言えばアクの強いピアニストだと聞いていたけれど、この日の演奏を聴いた限りでは、解釈の独自性よりも、音の美しさで際立つピアニストに思えた。これだけきれいにピアノを弾くと、オーケストラの伴奏は邪魔。アンコールとして演奏されたラフマニノフヴォロドス編曲)のチェロソナタ第3楽章(アンダンテ)は、昨日の演奏会の白眉であった。