ホノルルの裏も見てこい・・・N3の出港



 今日は航海類型3年生(N3)の出港。私も、他の類型の3年生の諸君と一緒にバスに乗り、石巻工業港で行われた出港式に参加した。暖かく、ぼんやりと霞がかかったような、本当に春らしい日和で、海辺で船を見ているのが心地よかった。羨ましいほど能天気に明るいN3の生徒諸君は、不安を顔に出すこともなく、いつも通りの能天気な笑顔のままで、元気に出港して行った。

 さて、私は今年も3年生の授業担当である。N3の授業が2ヶ月半にわたってないので、楽ちんなのはいいのだが、乗船までの3時間という何とも中途半端な時間をどう使うかというのは、いつも頭の痛い問題である。悩んだあげく、今年は、今年の授業についてのオリエンテーションをした上で、2年前に退職された実習船指導教員S先生が、退職間際に宮水図書館の年報『眺海』に寄稿した「ホノルル」という文章をテキストとして使い、読解の授業をすることにした。

 というのも、N3の授業がない一方で、授業担当者は「乗船課題」というものを作って持たせなければならない。私は、漢字のプリントとともに、航海記録とも言うべき「作文」を課題として出した。この「作文」は様式(段落構成)が指定してあって、その中の一場面に「ハワイ」という章が設定してある。漁業実習が終わった後、補給のために寄港するホノルルでの4日間の見聞を、原稿用紙2枚にまとめるというものだ。自由に書いていいのではない。ここにも条件が付けてある。「課題に綴じ込んであるS先生の随想を読んで、それに必ず触れること」というものだ。

 S先生の「ホノルル」はたいへんいい文章なので、過去に2回、私が乗船課題を出した時にも、読んでそれに触れることを義務づけた。しかし、提出された作文を読んでも、「ホノルル」にほとんど触れていないどころか、読まずに書いたのではないか、と思わせるものも少なくなかった。そこで、今回は、授業できっちり読ませておこうと思ったわけだ。

 本当は、ここに「ホノルル」全文を転載できればいいのだけれど、S先生から許可をもらえなかったので、どんなことが書いてあるか、私の言葉に半ば置き換えながら紹介しておこう。

 宮城丸が寄港地としてホノルルを選んだのには、次のような4つの理由がある。

・気候がいい(一年中温暖かつ爽やか)。

・水がよい。

・便利(医療機関や日本語の通用度)。

・治安がよい。

 これらによって、ホノルルは実習船の寄港に最高の場所なのだ、とS先生は言う。ところが、S先生は「しかし」と続ける。ホノルルにはもう一つの顔がある。それは「軍事都市」だということだ。ハワイ経済を観光産業の次に支えているのは米軍なのだ。

 S先生が初めてホノルルを訪ねたのは、宮水漁業科(当時)の生徒だった1970年のことだ。当時、アメリカはベトナム戦争(1965〜1975)の真っ最中だった。S先生は、ダウンタウンで死ぬほど酒を飲んで暴れる若い兵士を、憲兵が片っ端から捕まえてトラックにぶち込んでいく光景を目の当たりにして、衝撃を受けたらしい。そして、それが間もなくベトナムへ出撃する米兵の、戦争に対する恐怖と不安の姿だということに気づく。

 ベトナム戦争終結後も、湾岸戦争アフガニスタン空爆イラク侵攻と、アメリカは戦争を続けている。S先生は、実習船指導教官として30年以上、毎年3回ホノルルに立ち寄り、その時その時の軍事都市としてのホノルルを見てきた。「市民に銃口は向けられない」と言って国外逃亡した兵士の話、アフガニスタンでは、自殺者数が戦死者数を上回ったということ・・・つまり、戦争における自分自身の死の恐怖と、人を殺すことの罪悪感とが、いろいろなゆがみを作り出すのだ。

 S先生は、1953年、終戦から8年目に生まれた。身の回りには、戦争体験者がたくさんいて、その話を聞くことも多かった。ところが、今の高校生はそうではない。S先生はそのことを憂慮する。

 ホノルルには、1941年に真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナと、1945年に日本の降伏文書調印式が行われた戦艦ミズーリが記念館として保存されている。太平洋戦争の最初と最後を見ることができるわけだ。そのことを紹介した上で、S先生は、「ホノルル寄港の際は常夏のハワイの裏側を覗き、自分たちがいかに恵まれた環境に置かれ育っているか再認識し、戦争のない日本をいつまでも守り続けてほしいと思います。」と結ぶ。

 日本からは、飛行機で多くの観光客が訪れるハワイだが、こんなことを意識している観光客は多くないだろう。しかし、「沖縄」が現在形であるのは太平洋戦争があったからであり、現在形の「沖縄」の後には、間違いなく「ハワイ(ホノルル)」がある。私も生徒たちには、そんなハワイの裏側を意識し、決して過去形ではない戦争を考えてきて欲しいと思う。確かに、光輝くワイキキビーチだけがハワイではないのだ。