二宮金治郎の本(続)



 本当はやるべきことがたくさんあったのだが、どうしてもその気になれず、他人に対して責任がある「やるべきこと」ではなかったのをいいことに、息子の野球の練習に付き合う程度のことしか(?)しないまま、連休を終えてしまった。連休明けの週末が支部総体ということで、運動部を持っている人たちは連休なんて無いんだろうなあ、と気の毒に思ったが、ふと我が身を振り返ってみれば、陸上部顧問である妻は休みが1日しかなかったから、そのとばっちりを受けていた私も含めて、我が家も無風というわけにはいかない。

 さて、その連休中、二日間に分けて、のべ4時間余り、石巻市立図書館に『二宮尊徳翁全集』(二宮尊徳翁全集刊行会、1937年)を読みに行った。小学校の石像の本になぜ『大学』第9章の文字が彫られているのかという、例の疑問(→こちら)を解決させたかったのである。なにしろ、各巻500ページ以上、細かい字でびっしり書かれた全6巻の全集を、私の事情が許したわずか4時間半で、要所を書き写しながら読破しようというのだから、狂気の沙汰である。というわけで、杜撰な作業ではあるが、一応、得た知見をまとめておくことにする。

 結論から書く。おそらく、『大学』第9章を石像の本に刻む必然性はない。二宮金治郎(金次郎ではなく、金治郎が正しいらしい)の問題ではなく、最初に石像にその言葉を刻むことを発案した人の思想と、その石像が全国に伝播した経緯とに問題があるに違いない。『大学』第9章は、全集6巻でわずかに3箇所しか登場しない。しかも、それらは「二宮先生語録」「遺訓集」という、他人の記録であって、十全の信頼に足るとは言えない。

 ただ、『大学』という書物が、二宮金治郎にとって特別な意味を持つものであったことは確からしい。

 「余は、冷飯で水を飲み、以て『大学』を読んだ。或いは、薪とりの途中に之を誦し、或いは耕作のひまに読んだ。或いは人が寝しずまってから後之を読んだ」(全集第1巻、「二宮先生語録」第79条。新字新仮名に改め=以下同)

 前回も触れた「報徳記」(全集第3巻所収)や、「愛読書類集・解題」(全集第5巻所収)で、第三者が二宮金治郎における『大学』の重い意味を語るのは、全てこの述懐に基づいてのことであろう。なぜなら、『大学』を大切に考えていたことを示している二宮自身の述懐は、おそらくこの1箇所だけしかないからである。

 一方、他人が記録した逸話で、『大学』に関するものとしては、以下のような面白いものが伝えられている。少し長いが引いておこう。

「小田原の城北藪の辺りに男沢高柔という表札をかけた家がある。同家にある翁の木造は珍重して容易に他人に見せないが、それは翁が左手に扇を持ち右手に『大学』を捧げて熱心に誦読して居られる像である。しかし、其の当時の言伝えを聞くと、翁の持たれたのは扇ではなくて小柄である。何故に小柄を持って居られたかというと、若し孔子が『大学』の中に間違ったことを言って居られたならば、其所を切り抜いてやろうというので、小柄を持って『大学』を読まれたということである。高柔氏の父君はかねて翁に随身せられて居ったので、渡辺久清という仏師屋を呼び、障子の隙間から其の光景を木造に取らせたのであるが、仏師屋だけに小柄ではどうも殺気をおびていかぬと言って、扇に変えたということである。(中略)ところで翁は孔子の誤謬を発見されたかというに、眼光紙背に徹するまで読んでも、一言半句も『大学』に間違ったことがないというので、遂に小柄を抛って降参されたということである。」(全集第5巻所収「逸話集」第139条)

 どうも私が見る限り、これは非常に重要なことを語っている。それは二宮金治郎が、中国の経典(聖人の言葉)を金科玉条とせず、極めて批判的に読んでいたことを示しているからだ。自分の考えと『大学』とに齟齬があった場合、自分の考えを信ずるがために、『大学』のその部分をナイフで切り取る覚悟でいたのである。

「翁曰く、学問は活用を尊ぶ。万巻の書を読んでも、活用しなければ用を為さない。」(全集第3巻所収「二宮先生語録」第39条)

「翁曰く、世の中に道を説ける書物は、算えきれぬ程多数あるが、一として全き物はない。如何となれば、釈迦も孔子も皆人なるが故である。経書と言い経文と言うも、皆人の書いたる物であるからである。故に予は、不書の経、則ち物言わずして四時行われ、百物なる処の天地の経文に引き当て、違いなき物を取って違える物は取らぬ。故に予が説く処は決して違わぬ。」(同第87条)

「学んで之を知る、ちょうど暗夜、燈を点じて地上を見るがようだ。然り而して燈の燭す所は限りがある。書の載する所も限りがある。いずくんぞ燭外の地を見て、書外の理を知るを得ようや。もしそれ心を以て之を見る、心を以て之を知る、則ち其見其知、限量があろうや。故に達磨は不立文字、教外別伝、しかも是は学に泥む者の為に発するのみ。人世何の益があろうか。」(同第447条)

「翁の門下生指導は、在塾者と否とに拘わらず、教科書及び課程等があるわけではなく、その遭遇し提供する事項に応じ、翁の指導命令によってこれを処理して行くのである。」(全集第5巻所収「逸話集」第59条)

 二宮金治郎の言葉を追っていて、非常に強く思い知らされるのは、彼の強い実践への指向である。従って、彼において書物は相対的に軽い地位しか獲得できない。自分自身がおかしいと思えば、『大学』でさえも切り抜いてしまおう、書いたのが人である以上は、完璧ということはあり得ない。世の中の全てを書き尽くすことはできないのだから、本には自ずから限界があるのだ。これらの言葉は、痛快とさえ言ってよい。門下生に対しても、彼は書物を紐解くのではなく、具体例を題材とし、自らの考えに基づいて指導していたらしい。

 彼は本を多くの読み、勤勉に学んだ。しかし、それは、あくまでも自分を高めるための方法のひとつでしかなかった。大切なのは、人を救うという信念を持ち、その場その場で臨機応変に最善の判断を下すという、非常に陽明学的な作業であった(金治郎は上でこれを「活用」と称している)。小学校であれば、彼の基礎的な修養の一場面として、寸暇を惜しんで読書する姿を顕彰するのもよいかも知れない(歩きながら本を読むのは交通安全上問題があると言って、像を撤去する動きもあるとか。ま、確かに・・・)。だが、最後にはむしろ書物など捨て、忘れてしまった方がいい。読書の姿を顕彰するばかりで、金治郎がたどりついたその境地を忘れてしまっては、読書も金治郎の本意に反することになる。