PTA考(1)



 しばらく前から、一度、PTAについて自分の思うところをまとめておこうかと思っていた。学校の中で見ていて、これはなかなかに不思議な組織だからである。そうしていたところ、今月3日〜24日、5回にわたって、『朝日新聞』で「PTAどう考えますか?」というA3を超える大きな記事が連載された。その中に書かれていることは、日頃の私の実感と多少ずれるところも多いので(小学校と高校ではPTAの性質も大きく違うのに、ひとまとめに扱っているからだろう)、必ずしもその記事を踏まえてという形にはならないが、一つのきっかけとして、少しだけ書いておこうと思う。

 私がPTAを「不思議な組織だ」と言うのは、組織におけるP(Parent)とT(Teacher)との関係である。

 15年ほど前にいた学校で、同窓会館の建設資金を巡ってある問題が発生した。同窓会が大風呂敷を広げて寄付金集めを始めたものの、思い通りの寄付金が集まらなかったため、窮余の一策として、保護者から不足分を徴収しようということになったのだ。職員会議で、PTA担当教員から、次の総会でそのような議案を提案するという報告があり、いろいろな異論が出た。だが、職員会議はPTAの議決機関ではないので、あくまでもそれは「お知らせ」に過ぎなかった。何日か後、総会で議論が行われた。提案内容が大きな問題を含むと思っていた私は、そこでの発言を求めようとしたところ、年配の同僚に止められた。 私がPTAとは一体何なのだろうか?という疑問を持ったのは、この時である。

 私はPTAがParent Teacher Associationの略であることは知っていた。その言葉を素直に解釈すれば、保護者と教員とが(教育活動において)協力し合う組織だ、ということになるであろう。保護者と教員の立場はイコールに見える。法的根拠については無知だった。

 しかし、上の体験からは、最高議決機関であるはずの「総会」で、教員に発言権はない、ということが分かる。もっとも、議長から拒否されたわけではないので、制止を振り切って発言を求めていたとしたらどうなったかは分からない。だが、状況から考えると、確かに、教員には、総会で意見を言う権利はないのである。その後、それ以前にいた学校のPTAを思い出したり、その後に勤務した学校で、PTAを観察していると、どの学校でも大きな違いはなく、PTAは親の組織であることが分かる。そもそも、PTA総会での座席を見ると、保護者と教員が同じ場所に入り乱れて座っているということはなく、向かい合っているわけでもなく、保護者席を真横から見る形で教員席がある、つまり保護者の議論を教員が見守る、というのが両者の関係なのである。

 会則には、おそらくどこの学校でも、会員が保護者と教職員である旨明記されている。だが、教職員が会長をしているという例は聞いたことがなく、校長はたいてい「参与」とか「顧問」という肩書きを与えられている。宮水の場合、会則では、会長は誰がなってもいいことになっている(保護者の中から選ぶという規則はない)が、参与は校長のアテ職である。つまり、保護者と教職員は、一見、会員として平等でありながら、役員の割り振りを見ると、明瞭な違いがある。実態をより正しく反映しているのは、もちろん、後者だ。

 どの学校でも、教員内での役割分担(分掌)で総務部というところにPTA担当教員がいる。彼らは、高校の場合学区が広いこともあってなかなか意思疎通が上手くいかない保護者を結び付け、彼らの「PTA」が円滑に機能するために、あれこれとお世話をしている。また、1年生の担任になって最初の仕事として、新学期が始まるまでに、面識のない保護者に電話を掛けて、PTAのクラス委員をお願いするというものがある。面倒で気が重い仕事である。PTAが親の組織だとすれば、担任がその役員を「お願いする」というのは変だ。役員決めくらい自分たちでやれよ、と思う。だが、もしかすると、教員がこのように内政干渉のような立ち回りをしてでもPTAが機能するように努力するのは、学校内に、PTAが機能してくれないと困る事情があるからかも知れない。

 教員と保護者が唯一平等なのは、会費の納入だ。しかし、「代表なくして課税無し」という原則を類推的に当てはめると、教員が、実質的に発言権がない組織に対して会費を払うのは変であるとも思う。この点に関して教員から文句が出ないのは、さほど真面目に考えていないか(天引きなので支払いを意識していない)、会費が少額だからか(宮水で年に4000円弱)、校長やPTA担当教員が了承しないことは議案にできないというシステムがあるか、PTAに世話になることもある、特に、何かの行事の折に飲食物が提供されたりする際、後ろめたい思いをしなくて済む、といった事情によっているだろう。(続く)