PTA考(4)



 PTAが学校に出来てから70年近くが経った。組織が劣化するには十分な時間であろう。発足の時には、PTAの理念を実現させようという気概に燃えていたかも知れないが、今やあることが当たり前、その前提に立って、役員を決めなければならないとか、今年も昨年並みの活動は維持しなければならないとか、上部団体の何とかという役割が回ってくるとか、義務のようなものばかりが多ければ、活動が面白くなるわけがない。加えて、教育環境整備のために活動するとは言っても、学校運営の主導権は教員側にあり、実際そうでなくては困るわけだから、どうしてもPTAは御用組合的な色彩を帯びてきてしまうのである。これまたあまり面白そうには感じられない。

 ここでようやく昨日の話の続きとなるが、これらのような閉塞感が、組織は形式的なものになる、ということの意味である。加えて、PTA会長になることが、市会議員へのステップになったり、一部の常連役員がお友達集団を作って閉じられた会となり、人が自由に入り込めなくなったりすると、その閉塞感は更に強まる。

 こうして、PTAなんて本当に必要なの?となった時に、にわかに浮上してくるのは、PTAに加入することの任意性の問題だ。

 学校がPTAを組織することに義務はない。同時に、保護者や教職員がその会員になることについても義務はない。だが、入会の意思を確かめているPTAなど、身近には見たことも聞いたこともない。世の中には、加入の任意性を認めているPTAがあることは、聞いたことがあった。今回の朝日の連載にも、紹介されていた。

 今のマンネリ化・形式化したPTAを、改めて活性化するためには、やはり加入を任意とすることが必要なのではないか、と思う。それでこそ、PTAの存在意義を問い直し、能動的に活動に参加する姿勢を引き出すことができると思う。

 もちろん、何しろ人間関係の煩わしさを嫌い、暇つぶしのネタに不自由していない昨今、そう多くの保護者の加入は期待できない。多くの人が加入したくなるようなPTA活動を目指すというのは、言うは簡単、実現は至難の課題である。

 おそらくどの学校にでも、PTAからのお金というのがある。施設充実費とか、指導費補助といった形で、PTAは学校運営のための補助金を学校に貢いでいるのである。これは、本来、学校を設置している県なり市町村なりが出すべきお金であるが、そのようなところのお金は、年度当初に面倒な申請書を出して予算を付けてもらい、これまた面倒な手続きをして支出してもらわなければならない。とにかく公金というのは融通が利かないのである。しかし、現場にはいろいろな都合があり、年度当初に見通しの立たないことも多い。そんな時に、柔軟に使える財源がないと困る。その点を支えているのがPTAからのお金なのである。いわば必要悪である。ホンネとして、PTAがなくなっても困らないが、このお金だけはなくなると困る、という人(特に事務員)は多いだろう。

 朝日の連載第4回には、入退会自由で会費もゼロという那覇市の識名小学校PTAの事例が紹介されていた。その学校では、学校の予算不足を補うためのお金を、PTA会費としてではなく、年間500円徴収し、学校に収めることで合意ができたという。私も、この方式が合理的だろうと思う。識名小学校のPTAは、加入率が1割ほどで、活動は月1回のミーティングだけらしい。しかし、これだけ形式と付属品を捨ててしまった組織は、身軽で自由で新鮮だろう。

 やはり、義務は決して人を育てない。PTAは一度廃止してもいい。だが、廃止されて無になってしまえば、終戦直後のような大規模な社会変革が起きない限り、再び組織されたりしないだろう。だから、実質的な任意団体として、少人数ででもいいから、改めてその必要性を問い直し、身の丈に合った、実質的な内容のある活動をすべく、議論を始めればいい。とは言っても、自分が保護者の立場で、実際にPTAでそのような問題提起をするのはエネルギーが必要だ。PTAが任意であることが周知されるか、任意化の事例がもう少したくさん見えてくると、話は出しやすくも進めやすくもなるのだけれど・・・。(とりあえず完)