「本物」佐伯敏子さん



 ちょうど1週間前、7月10日の毎日新聞「消せない夏 ヒロシマナガサキ(中)」という欄を一目見て、佐伯敏子さんの名前が目に飛び込んできた。広島の被爆者の代表として取り上げられている。

 原爆被爆者については、このブログでも過去に2回書いたことがある。一つは2011年7月13日、沼田鈴子さんに関するもので(→こちら)、もう一つは2013年2月4日、山岡ミチコさんに関するものだ(→こちら)。どちらも、その訃報に接して思い出と感慨を書いたものである。感慨とは、基本的に、体験を継承するということがいかに難しいか、ということである。

 さて、佐伯敏子さんには、おそらく3回お会いしたことがある。そのうち2度は広島で、1度は石巻でであった。たまたま、私が高校教員になって最初に赴任した学校が、宮城県で当時一つの潮流となっていた広島修学旅行の震源地だったため、私自身はたいしたことはしていないにもかかわらず、いわばそのおこぼれを頂戴する形で、いろいろな人と会い、お話を聞く機会に恵まれた。

 佐伯さんは、平和公園の北の端にある「原爆供養塔の墓守」である。もっとも、そんな地位や職業があるわけではない。ただ、私はそんな表現が最も似つかわしいと思っている。原爆供養塔は、地下に身元の分からない7万人分もの遺骨が眠るお墓である。佐伯さんは、いつもそこの近くにおられた。除草や掃除といった作業をしながら、人が来れば被爆体験を語る。遺骨の身元を調べ、それを遺族に返す作業にも取り組んでいたという。

 「広島修学旅行」運動とも言うべき大潮流の仕掛け人でありリーダーであったK先生が、ある日、私に向かってぽつりと、「やっぱり佐伯さんこそが本物なんだよなぁ」とおっしゃった。私は同感だった。ここで言う「本物」とは、人からどのように評価されるか、何と言われるかに関係なく、本当に大切なものを見つけ出し、自らの信念に基づいてのみ行動している、ということである。

 佐伯さんは、1991年6月29日に石巻に来られた。同行してきたのは江口保先生である。江口先生は、長崎で被爆した東京の中学校教師である。自らも、教師として生徒を広島に修学旅行で連れて行ったりしていたが、57歳の時に退職し、広島にアパートを借りて「ヒロシマナガサキの修学旅行を手伝う会」を立ち上げ、平和教育のために広島を訪ねようとする全国の学校のために、証言者の紹介や、プランの作成などの手伝いを無償でしておられた。1998年6月16日に亡くなったが、死の直前に自伝『いいたかことのいっぱいあっと』(クリエイティブ21、1998年7月17日刊)を完成させた。

(注:この2つの日付は間違いないが、私が先生からいただいた最後のお手紙は、日付が1998年9月になっている。なぜかがどうしても分からない。)

 その本の中に、「ガイド化する被爆者の証言」という一節があって、先生は、旅行業者が証言者を学校に紹介するようになってから、被爆者が変質を始めたと述べ、体験の証言よりも原爆に関する蘊蓄が大きな部分を占めるようになってしまった被爆者、自ら金額を指定して謝礼を要求するような被爆者が現れるようになったことを嘆いている。「物語」を求める依頼者の側の問題も指摘している。私は、そのような場面に出くわして白けた気分になったことはないけれど、被爆者として尊重され、証言を求められることで、スターになったような意識を少し持っている被爆者がいるのではないか、と感じたことはある。

 佐伯さんが「本物」だというのは、それらと正反対だという意味である。

 被爆の体験を継承するのは難しいことだ。だが、それは平和ボケをした私たち、戦争後の世代にとってだけではない。伝える側にとっても、なのである。雑音に惑わされず、自分の内側だけを真摯に見つめ続けること、それは戦争や被爆の体験継承だけではなく、あらゆる場面で必要であり、守り抜くことの困難な生き方なのだ。

 広島や原爆に関するニュースを耳にすると、訃報に接した記憶も無いが、佐伯さんはどうしているかなぁ、と思い出すことが時々あった。毎日新聞によれば、佐伯さんは95歳でご存命である。失明し、今では供養塔に行くこともできないらしい。「知ろうとすれば、何でも知ることができる。知ろうとしなきゃ、何にも分からないのが広島なのよ」という言葉を、佐伯さんは「ベッドの上で」語った、と書いてあるので、寝たきりに近いような生活をしているのかも知れない。

 「被爆者」としてではなく、「本物」の生き方を貫いた一人の人物として、もう一度お会いしてみたいような気がしてきた。