ファミレスも苦しい



 秋田に行く少し前、東京に住む前々任校の卒業生O君から、帰省するのだが31日に会えないか、という連絡があった。幸い、バスが予定より早く着いたので、O君に電話をして石巻で会った。郊外の某ファミリーレストランに入ったのは、20時半であった。1時間半あまりそこで話をしたのだが、周囲の光景にいろいろと気になる(気に障る)ことがあって、落ち着かなかった。

 何といっても驚いたのは、幼い子どもの多さである。私たちが座っていたテーブルの斜め向かいには、2〜3歳の女の子を連れた母親がいた。隣には、小学校に入るか入らないくらいの男の子を連れた母親だ。彼らがいなくなったと思ったら、家族連れと思しき6人組がドヤドヤと入ってきてその席に着いたのだが、中に2歳くらいの女の子が二人混じっている。時間は既に21時半を過ぎていた。店内全体を見ていたわけではないが、他にもいたと思う。

 斜め向かいの母親は、子どもの存在を忘れたかのように、ずっとスマホの画面をいじっていた。することのない女の子は、ぐずりもせず、メニューのページを繰り返し繰り返しめくっては眺めていた。隣の男の子はゲーム機、向かいの母親はやはりスマホである。まるで他人がたまたま同席を余儀なくされたかのようだ。6人組は楽しそうにお話ししているのが4人、スマホが2人である。

 以前、私は「発達障害」だ、と書いたことがある(→こちら)。こういう光景を見るのがほんとに苦しくて、世の中が住みづらく、生きづらいのだ。

 大雑把に言って、幼児であれば12時間、小学校低学年でも10時間の睡眠時間を確保することが、健全な成長には必要とされているはずだ。つまり、小学校低学年以下の子どもは20時から6時か7時まで眠った上で、更に幼児は2時間のお昼寝が必要、ということになる。これはほとんど常識と思われるし、出産後の子育てサークルや母親教室の類いでも言われているはずだ。どう考えても、22時にファミレスでパフェを食べているわけにはいかないのである。

 加えてスマホとゲームだ。ファミレスで会話のない家族が、家ではスマホもゲームも横に置いて会話をしているとは考えられない。

 少し話はずれるが、1ヶ月ほど前、息子と共にある人の車に乗せてもらった。運転している人もその息子も以前からよく知っていたし、何も悪い印象は持っていなかった。ところが、車に乗るとすぐに、その息子が父親にiPhoneを貸せと言い出した。父親がダメだと言ったところ、驚くほど激しく騒ぎ始めた。すぐに父親は息子にiPhoneを渡し、息子は私たちの横でゲームに没頭し始めた。我が目を疑うような光景だった。そんな子であり、そんな父親だったのかな・・・?!

 今年の5月22日、河北新報に「スマホに子守をさせないで」という記事が出た。日本小児科医会常任理事・内海裕美氏によるものである。診察を受けに来る2歳くらいの子でも、スマホを欲しがって騒ぐ子をよく目にするという。スマホで遊ばせることが「知育になる」と考える母親がいるらしい。その上で、「スマホを取り上げた時は、おもちゃを取り上げた時より、子どもの怒り方が激しい。大丈夫でしょうか?」という「親の戸惑いの声」を紹介している。こんな記事を読んでいると、私はまた生きづらさを感じてしまうのだが、記事を読んだだけでは、まだ例外的な一部の人の話、と思っていることができた。しかし、車の中での光景は、記事の内容をリアルに感じさせてくれるものであった。

 自分の子どもが今後どのように成長するのか分からないので、偉そうに教育論・子育て論を語ることにはためらいがある。それでもやはり、夜10時のファミレスに幼児がいたり、スマホやゲームの画面を眺めるばかりで会話がない、というのは異常であると断言できる。世の中の親が何を考えているのかまったく分からない。いや、甚だ失礼・不遜だが、今この瞬間にやりたいと思ったことをやっているだけで、それ以上のことは何も考えていないのだろう。彼らが選挙で社会の方向性を選択する時、まともな判断が出来るとは考えられないし、子どもが健全な社会人(主権者)に成長するとも思えない。そして、安倍政権の支持層というのは、正に彼らのような人々であるに違いない。

 O君との会話は楽しかった。しかし、目に入ってくる周囲の光景は苦しかった。その光景を私が見なかったからといって、世の中の実態が変わるわけではないけれど、やはり心静かに会話を楽しむためには、外に出ずに、我が家の居間にでもいるしかないのだな。寂しくそう思った。