中国語は難しい(1)



 私の読書は、8割が中国語、2割が日本語である。英語というのもないわけではないが、せいぜい輸入盤CDの解説冊子に目を通す程度なので、1%未満である。では、読書の中心を占める中国語がそれほどよく理解できているかというと、そうとは言えない。特別な必要性がない限り、よく分からない所は飛ばして読むことによって、面倒を回避しているだけである。中国語は、いつまで経っても私にとって難しい。もしかすると、以下の話は、その私の貧相な中国語力を白日の下にさらす結果にしかならないかも知れない。

 中国語の難しさというのは、いろいろあるが、その一つに外来語という問題がある。日本人は、ひらがな、カタカナという2種類の表音文字と、漢字という表意文字を憶え、混ぜ合わせて使えなければならない。ひらがな、カタカナはそれぞれ41字(ゐ、ゑを入れると43字)、漢字は常用漢字だけで2136字ある。日本語を読み書きするというのは本当に高度な知的作業だ。だが、中国語で外来語の壁にぶつかると、少なくとも、カタカナの存在を非常にありがたいと感じるようになる。何しろ、中国にはいまだに漢字しかないので、外来語は全て漢字表記、しかも、意訳の場合と音訳の場合と、両者が一つの単語の中に同時に組み込まれている場合があるのである。

 意訳で有名なのは、コンピューターを意味する「電脳」だ。「電影(映画)」もこの類いだし、「足球(サッカー)」「籃球(バスケットボール)」「滑雪(スキー)」など、スポーツの種目名にはこれが多い。諸外国の地名や人名、商品名は音訳がほとんどだ。「徳意志」はデーイーチーと読んでドイツ。ただし、一般には徳国と略す。「意大利」はイーターリーでイタリア。「捷克斯洛伐克」を、ジエコースールオファーコーと読んでチェコスロヴァキアとなると、かなり難度が高い。地名でも、アイスランドのように「氷島(ビンタオ)」と意訳する例もある。「愛因斯坦」はアイインスータンでアインシュタインモーツァルトは「莫差特(モーチャートー)」か「莫扎托(モーチャートゥオ)」だ。「南斯拉夫(ナンスーラーフー)」はユーゴスラヴィアであるが、これは「ユーゴ=南」「スラヴィア=斯拉夫」と意訳音訳が両方使われている。面倒と言えば面倒だが、国名の意味(南にあるスラブ人の国)が分かるというメリットもある。また、「新西蘭(シンシーラン)」はニュージーランドで、これも意訳音訳が両方使われているが、ニューヨークは「紐育(ニウユィー)」なので、「ニュー」が常に意訳されるということもなく、外来語の表記ルールが存在するようには見えない。更に、有名な「可口可楽」はクーコウクーラーと読んで、コカコーラのことであり、明らかな音訳であるが、同時に、「口にすべし楽しむべし(飲むと楽しくなるよ)」というキャッチコピーを兼ねている優れものだ。昨年、私が中国で買って来た「ハウス バーモントカレー」は、「好侍 百夢多 咖里(ハオシー バイモントゥオ カーリー)」であった。・・・・・

 ともかく、見た瞬間に外来語だと分かれば、とりあえずは発音を手掛かりに何のことだか考えてみることが出来るが、何しろ漢字は表意文字であり、必ず意味というものを持っている。そこで、外来語と気付かなければ、1文字1文字の意味を手掛かりに、何が書いてあるのか苦し紛れの訳を考え出すということもおこってくる。大学時代、中国語の授業の時に某君が、苦心惨憺して「托爾斯泰」を訳した時に、みんなで大笑いしたことがあった。「托爾斯泰」はトゥオアルスータイと読んで、ロシアの作家トルストイのことである。

 さて、ここまでは長い前書き。

 一昨日、先月末にシンガポールでもらってきた某書籍に目を通していて、私は「麗的呼声李大傻的粤語広播故事」という言葉に出くわし、頭を抱え込んでしまった。何を言っているのかまったく分からない。(続く)