クラウディオ・アラウ



 先週の日曜日に録画したロンドン交響楽団の演奏を、昨日から今日にかけてようやく見ることが出来た。10月1日にNHK音楽祭のプログラムの一つとして開かれた演奏会で、指揮はベルナルト・ハイティンク、ピアノ独奏がマレイ・ペライアという「えっ!まだ生きていたの?」(失礼)というような顔ぶれである。とは言え、確かにハイティンクは86歳だが、ペライアは意外に若くてまだ(?)68歳。しばらく前に指に致命的な怪我をして、ピアニストとしては再起不能だ(指揮者に転向)というような話を聞いたことがあったが、映像の中ではそんなことを感じさせる風はなかった。

 ペライアが弾いたのはベートーヴェンの協奏曲第4番。私が昨年「大楽必易」の典型と評した(→こちら)、あの曲である。決して悪い演奏ではなく、むしろハイティンクも含めて、老大家ならではの落ち着いた趣があっていい演奏だとは思ったが、私のあらゆる曲を通しての最愛聴盤の一つであるクラウディオ・アラウ(+コリン・デイヴィスドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の演奏が思い出されたので、テレビが終わった後でそれを聴き、他と比べてみたくなって、更に5種類の第4番を聴き、そしてやっぱりアラウだな、と思ったところで昨日一日が終わった。

 1984年録音のこのCDを、私はまだCDが高価だった時代に買った。目当ては第4番ではなく、その後に録音されている「創作主題による32の変奏曲ハ短調」であった。確かFMで聴いて圧倒的な感銘を受け、わざわざCDを買い求めたのである。この演奏は、今でもまったく色あせていない。わずか12分の、作品番号すら付いていない、ピアノソナタや協奏曲に比べて至って地味なこの曲が、アラウの演奏で聴くと、ベートーヴェンのピアノ独奏曲の中で最も内容豊かな優れた作品に思われてくる。雄渾で奥の深い名演である。

 オマケのつもりだった協奏曲第4番が、これまたたいへんな名演であった。昨日、久しぶりで聴いてみて、そのゆったりとしたテンポと、何ら奇抜な所のない解釈が、録音当時81歳だったアラウの精神的境地と技術的な確かさに支えられて、なんとも味わい深い音楽を作り出していると、改めて感銘を受けた。デイヴィスはまだ当時57歳に過ぎないけれど、そのサポートは老境に似つかわしい落ち着きに満ちている。

 昨日、我が家を探してみたら、第4番の録音が10種類見つかった。比べてみると、アラウの演奏は、時間的に全体の半分以上を占める第1楽章において、そのテンポの遅さが際立っている。2番目に遅いグレン・グールド(グールドが遅い方の代表格というのは、これまた意外だ!)より1分半も余計にかかっている。最速のポリーニとの違いは、実に3分半以上だ。テンポは遅ければ遅いほど、内容がないと聴き手を退屈させる。もちろん、アラウの演奏に退屈は感じない。チェリビダッケブルックナー(→こちら)みたいなものだ。この遅さと重さは、アラウによく見られるもののような気がするが、曲によってはそれがマイナスに作用する(今すぐに思い浮かぶのは、同じくベートーヴェンピアノソナタ第28番の第1楽章)。だが、協奏曲第4番にはぴったりだ。

 81歳の枯淡の境地を表す名演、とは言ったものの、実はこれらの曲を作った時、ベートーヴェンは30代後半(協奏曲38歳、変奏曲36歳)である。38歳の作った曲を81歳が演奏して、老境の奥深さを表していながら、その曲を壊していない、というのは実は凄いことなのではないだろうか?38歳の曲を38歳のように演奏しなくてもよく、38歳の曲で81歳の境地を表現することも出来る。38歳のベートーヴェンが80代の境地に達していたなどということはないだろうから、これは明らかに曲の持つ本質的な価値であり、ベートーヴェンの実力である。時代を超える「古典」は、世代をも超えるということだ。

 アラウもベートーヴェンも素晴らしい。演奏というのは、いかなる場合でも演奏者と作曲者の共同作業なのだが、このCDを聴いていて、昨日は今更ながらにそのことを強く意識させられた。