教科書問題・・・批判の矛先を間違うな



 教科書に関する問題が、頻繁に報道されている。三省堂に続いて数研出版、そして最大手の東京書籍だ。おそらく、まだ出て来るだろう。あまり教科書会社を責めない方がいい。より一層悪いのは制度であり政府なのだから。

 私は、国の教育政策の悪質さを象徴することとして、日の丸君が代強制の問題を何度か取り上げた。国を滅ぼす、とさえ言ったことがある。思えば、教科書問題についてはこの場に書いたことがなかった。だが、実は、日の丸君が代と教科書は双璧であるということを、30年近くの間、口頭ではあちこちで何度となく語ってきた。家永教科書裁判にも、わずかばかりの支援をしていた。それら二つに共通するのは、国民の思想を国がコントロールすること、すなわち国家に従順な国民作りを目的としている、ということである。

 言うまでもなく、戦後の教育は、太平洋戦争終結まで、学校が国の宣伝機関の役割を果たしたという反省を出発点とする。民主教育とは、自由に基づき、政府を含めてあらゆる物事を批判的に見る能力を養うことを根幹としなければならない。それがレベルの高い主権者を育てることになるのである。この観点と日の丸君が代・教科書は激しく対立する。

 教科書政策の何が悪いかというと、大きく分けて二つある。一つは閉ざされた検定であり、もう一つは採択のシステムである。

 本来、教科書はよりよいものを目指して、多くの人の声に耳を傾けながら、オープンに作ればよいものである。ところが、煩瑣な基準を政府が作り、微に入り細に入りチェックする。今回の一連の出来事で明らかになったように、検定が終了するまでは、教科書を現場の教員に見せることも許さない。当然、検定ではねられれば、その教科書は教科書としては出版できず、教科書会社はそこまでの努力を棒に振ることになるので、検定官およびその背後にある文部科学省に対して萎縮し、ご機嫌を伺うようになる。

 採択(選定)は、その学校を設置している教育委員会に権限がある。県立高校は県教委、市立小学校は市教委という具合だ。しかし、そんなに単純なものでもない。

 小中と高校では事情が違う。権限が県教委にあるとは言え、実質的に高校は学校ごとに、その学校の教員が選択することが出来る。高校は学校間の学力差やカリキュラムの違いが大きすぎて、そうするしかないのだ。県への申請義務はあるが、もともと全てが「文科省検定済み教科書」なので、学校から申請した時に却下されることはない(聞いたことがない)。一つの学校で売れる教科書は、1種類につき数十から数百で、百近くもある学校(=宮城県の場合)に営業活動をしなければならないという面倒はあるが、努力に応じた採択が得られる可能性がある上、まったく採択されないというリスクは少ない。

 一方、問題なのは小中学校である。これは、学校ごとに採択する権限がなく、地区単位での採択となる。宮城県の場合は8地区だ。各学校の意見は委嘱された調査員を通して伝えることが出来る(はずである)。だが、採択の単位が大きいというのは非常に問題が大きい。なぜなら、ゼロか百かだからである。特に宮城県の場合、小学生人口の半分程度(以上?)が集中している仙台市が一つの採択区となっていて、仙台市教育委員会が小学6年生の「国語」は東京書籍と決めたら、一気に10000部近い注文が得られるのに、採択されなければゼロである。営業は切羽詰まった真剣さを伴うだろう。選考委員の顔色を伺うことも、心をくすぐることも必要になってくる。

 これらの結果として、今回のような問題は起こってくるのであり、どう考えても、悪いのは、教科書を自由にさせず、それを通して教育=人の心を自分たちの思うままにしたいという政治権力だ。いかにも規則に違反することをしたから、その人達が悪いようだが、その人達を責めるばかりでなく、規則自体がまともなのかどうか考えてみなければならない典型的な事例である。今回の出来事をきっかけに、人々にはその点にこそ目を見開いて欲しいと思うし、マスコミは大々的に報道してくれないと、権力を監視するというマスコミの意味がない。


(補)立派なマスコミの例には必ずしもならないが、年末年始、河北新報の「持論時論」欄に、立て続けに二人の方によるいい文章が掲載された。1本目の投稿者は、以前このブログでも紹介したことのある(→こちら)「おひさま村教育研究所」代表・千葉義明先生で、2本目は昨年までみやぎ教育文化研究センターの所長をしておられた春日辰夫先生である。さすがはどちらも私が尊崇する大先生である。ここで詳しく紹介できないが、春日先生はご自身が教科書作りをされていたので、その体験を踏まえた文章は説得力がある。とりあえず紹介だけしておく。

12月4日「教科書検定作業・・・透明性の確保へ公開を」(千葉)

1月6日「教科書検定作業・・・自由度ある編集・選定を」(春日)