防潮堤が守るもの


 日曜日と月曜日、朝日新聞毎日新聞に論調のよく似た大きな記事が載った。朝日の見出しは「巨大防潮堤何守る 高台移転住民戻らず」、毎日は「高台に限界集落 中核事業の現実」というものだ。十分に想像できるだろう。私が前々から問題にしている、被災地域での巨大土木工事に疑問を投げ掛けたものだ。マスコミ、遅すぎるよ。

 ともかく、もう少し詳しく触れると、朝日は、石巻市雄勝(おがつ)で進められようとしている高さ9.7m、延長3.5㎞、総事業費130億円の防潮堤を問題にしている。毎日は、石巻市桃浦(もものうら)で、標高40mの高台に、1戸あたり1億2千万円をかけて5戸分の宅地が造成されたが、そこに住むのは6人、うち5人が65歳以上であると伝える。これら、最初から限界集落としてスタートした小さな集落が今後どうなるのか、どうしていくべきなのか、このやり方がよかったのか、そんな問いを突き付けている。

 「巨大防潮堤何守る」とは、ずいぶんとぼけた見出しだ。「守る」対象は、土建業者と経済に決まっている、最初からそんなことは明白ではないか。朝日は「海と陸が切り離された雄勝では、観光客も呼べない。10年以内に町は衰退する」という住民の言葉を引く。そういった景観や文化の問題だけではない。一昨年の6月には、中央大学の谷下雅義教授によって、海が見える地区ほど、津波による犠牲者が少なかったという調査結果が発表された。

 しかし、大義名分が立てられると見るや、土木工事を行う。これが最も手っ取り早くお金を使う手段だ。東日本大震災の被災地は格好のフィールドである。我が家の下、石巻市南浜地区では、40ヘクタール近い公園の整備、7.2mの防潮堤、道路の高盛り化、新しい橋の建設、更には、道路の付け替え。もちろん、公園も防潮堤も高盛り道路も私には理解不能なのだが、道路の付け替え(今の場所から変える)は究極の理解不能だ。どこからどう見ても、何とかして工事を増やしたいだけであり、それらは全て経済政策(予算獲得合戦=役所内部での権力闘争を含む)でしかないのである。

 今年の仕事始め、村井宮城県知事は、年頭の定例記者会見で、今年の抱負を示す漢字を「金」と発表した。その心は、「年末に県民の皆さんから『県に金メダルを与える』と言ってもらえる年にする」とのことだが、「はは〜、やっぱり何が何でも金(カネ)だな」と思った人は、決して私だけではないだろう。

 私には、温暖化の問題を始めとして、アベノミクスにしても、資源や食糧管理にしても、非常に暗く悲観的な発言が多い。何かにつけて消極的であり、抑制的だ。だが、よく考えてみると、世間では「また10mの津波が来たらどうする?」といったようなことがいまだに頻繁に語られる。逆に私は、そんな心配はしていない。過去50年間の交通事故と津波の死者数を比べてみれば、津波の心配がいかにバカげているかなんて一目瞭然だ。私が更に不思議なのは、100年もしくは数百年に一度来るか来ないかという規模の津波の心配をして、狂ったように巨大な防潮堤は作るのに、50年あまり後に枯渇すると言われている石油(枯渇しなくても急騰するはず)や、20〜30年のうちに危機的水準に達するはずの温暖化の心配はほとんど耳にしないことだ。

 何度も書いていることだが、今の社会構造において、石油の枯渇という「文明の崖」に直面すれば、食糧確保を筆頭に、とてつもない難問題が数限りもなく起こる、正に危機的・致命的題だ。同時に、向こう50年間で、現在埋蔵が確認されている石油を使い果たすと、そもそも人類が生存できないほど地球が汚染される。そんな問題よりも、どうして津波の方が大切な問題なのか?私にはそのようなゆがんだ時間的スケール、事の軽重、物事の優先順位というのが理解できないのである。

 つまり、私が深刻・重大と感じることと、世の中がそう感じることとは完全にすれ違っていて、世間を基準に私を見た場合、温暖化と関係しない自然災害との関係ではひどく暢気で楽天的、能天気、政治権力や資源・環境との関係では、救いようもなく悲観的、消極的、臆病な人間、トータルに考えて「ただの阿呆」に見えるということなのである。

 被災地内各所に作られた小規模な移転集落は、多くが限界集落かそれに近いもので、10〜20年くらいで廃墟になると予想されている。では、それらの地域が無人になるかというと・・・一時的には確かにその通りかも知れないが、大丈夫、石油さえ不足し始めれば、政策的に誘導しなくても、自ずから人口は地方に分散する。この点についても、私は甚だ楽観的だ。ただし、海から離れた高台集落は、その時にも歓迎されない場所になるだろう。石油が無くなれば、人間は自然に近づいていくからである。

 ともかく、今からでも止められる工事は止めなければ・・・。遅すぎるけど、マスコミ頼むよ。