運動部活動はどうあるべきか(2)



(飲酒と家族サービスに忙しかったので、少し時間が空いた。熟考していたわけではない。)

 このような難しい葛藤の中で、なし崩し的に競技団体の言いなりになり、ほとんど無制限放任状態になっている運動部について、自分の意思を明確に言い切りたいとする神谷氏は、どのようなビジョンを持って対抗しようとしているだろうか。

 氏は、部活動を「結社」であると考える。結社とは、「なんらかの共通の目的・関心をみたすために、一定の約束のもとに、基本的には平等な資格で、自発的に加入した成員によって運営される、生計を目的としない私的な集団」である。部活動を「結社」化することは「自治」を学ぶということでもある。神谷氏が運動部活動を意味あるものと認めるのは、そこで育まれる「自治」の能力に大きな価値を認めているからに他ならない。

 こう考えることで、氏は、運動部活動が学校にとって必要なものであり、教師の守備範囲にも入ってくると述べる。だが、本当にそうだろうか?

 神谷氏も、「理屈ではわかるけど、本当にそんな実践ができるのか?」という反論を予想していて、そのために、いくつかの実践事例を紹介している。だが、それらを読んでもなお、私自身の中で「これは机上の空論ではあるまいか?」「理屈ではわかるけど、本当にそんな実践ができるのか?」と思うのを止めることが出来ない。

 はっきりした理由がある。ひとつは、神谷氏が、自治を実現するためには大会の小規模化が不可欠だと言っている点である。大会は、それに参加する団体にしてみれば、自分たちの意志ではどうにも出来ないものである。つまり、志の高い生徒が集まって、もしくは教師がそのように仕向けて、先駆的な自治的運動部=運動結社を作っても、試合については先駆的実践というのが不可能だ。練習試合しかしない、とせざるを得ない。

 もうひとつは、スポーツの結果があまりにも明瞭な形で示されるからである。一方で、生徒の心身の健全な発達とか、勝利至上主義の弊害というものは、曖昧・漠然としている。自治や民主主義なんて、世の中で最も面倒くさいものの代表格だ。どんなに明確なビジョン、立派な教育理念を打ち出しても、勝負という強い刺激、麻薬的な魅力に太刀打ちすることは難しい。多くの人々にとって、大切なのは目前の分かりやすさ、面白さであって、理念などどうでもいいことであろう。これはまるで、人間にとっての「幸せ」をいくら高邁に論じても、世の中で幅を利かせるのは、結局、金だ、というのとおそらく同じだ。

 だから、神谷理論を実践しようと思えば、どこかのチームで実践例を作るといったものではなく、トップダウン的に行うしかないのではないかという気がする。どうすればそれが可能になるのか、私にはよく分からない。

 とは言え、あれこれと部活動やそれに準ずる組織(スポーツ少年団のように学校と無関係ではない社会体育団体を含む)の健全なあり方というものを考えてみると、私はどうしても最後は神谷説に行き着いてしまう。なぜなら、実際にスポーツをする主体が、組織の運営に力を持つことは当然だからである。だから、結社とか自治とか難しいことを言わなくても、生徒達が自分たちの運動部を自分たちに望ましいように作る、ということを常に原点とすればいいのだ。上手くなるためには指導者は必要だ。だが、例えば、毎週土曜日の午前中に技術指導をお願いしたい、というような、依頼をする形にすればいいのだ。指導を依頼したが最後、活動の全てについて指示を仰ぎ、服従するしかないといった、まるで悪い民主集中制のようなシステムにするべきではないのだ。そして当然、試合だって、移動も含めて、自分たちで運営できる範囲で行うようにすべきである。それが「身の丈」に合った部活動というものだ。小学生や中学生が、それをうまくできないからと言って、大人が手を貸すことは、そこに「大人のミニチュア」を作ることにしかならないのであって、結局、関わる大人の趣味の世界となってしまうものなのだ。うまくできなければ、それはまだ発達段階に合わないということだから、無理をさせる必要はないのである。大人が主導でやらせるとしても、「お試し」レベルに止め、子どもが自分たちでコントロールできる時間を奪うべきでない。

 指導が教員の守備範囲に入るかどうかの議論で、神谷氏は、指導の性質だけを問題とし、教員の仕事量全体の中に、それが入り込んでくる余地があるのかどうかという考察を欠いている。自治が機能すれば、顧問は正に「顧問」でいられるので、可能かも知れない。だが、何かにつけて「責任」が厳しく問われる昨今の状況の中、特に運動部において顧問が「顧問」でいることはなかなか難しい。国威発揚の競技団体や、子どもを自分のおもちゃにしようとする指導者だけでなく、そのような社会状況も絡んでくるから、ことは難しいのである。

 ともかく、神谷氏のような姿勢の方は、その理論を少しでも現実のものと出来るよう、社会と戦って欲しいと思う。もちろん、私も人任せというわけにはいかない。(一応終わり)