ブラームスの「ドイツレクイエム」

 北海道から戻って早々、今日は、明日の高校入試の準備が終わってから、仙台まで古巣・仙台宗教音楽合唱団(宗音=しゅうおん)の演奏会を聴きに行った。とは言え、宗音単独の演奏会ではなく、山形交響楽団アマデウスコア、岡山バッハカンタータ協会、盛岡バッハカンタータフェラインと4つの合唱団合同での大層な演奏会である。ちなみに、これら4つの合唱団は、指揮者が佐々木正利先生であるという共通点を持つ、いわば兄弟合唱団である。管弦楽は岡山フィル、指揮はなんとハンス・イェルク・シェレンベルガー。私は今回の演奏会の案内をもらうまで、高名なオーボエ奏者であるシェレンベルガーが指揮者に転身していたことを、まったく知らなかった。そして曲目は、ブラームスの「ドイツレクイエム」。
 「ドイツレクイエム」は、ブラームスの最高傑作というだけではなく、少なくとも西洋音楽の世界においては、歴史上のベスト5に入る人類の至宝であると私は信じている。この曲を聴くと、作った人は本当に心のきれいな人だったんだろうなぁ、と思うし、作曲家という存在の偉大さにも圧倒される思いがする。
 しかしながら、準備が大変だからだろう、それを実演で聴く機会は本当に少ない。私の人生においては、過去に1989年の東北大学混声合唱団第30回定期演奏会佐々木正利指揮)、2007年の仙台フィル第221回定期演奏会小泉和裕指揮)だけであり、今回が3回目である。
 演奏はとてもよかった。シェレンベルガーの、まるで中学校あたりの吹奏楽部を指揮するような単純な棒の振り方と、「レクイエム」離れをしたきびきびした音楽の進行に少し面食らったし、あらを探せばいくつか気になることがないわけではなかったが、ブラームスの「ドイツレクイエム」という名曲の演奏で、重箱の隅をつつくような論評をするのは愚と言うべきだろう。ただ、曲の一番最後、第7曲で第1曲のテーマが戻ってくる部分以降は、もっともっと静かで澄み切った「境地」にまで高まって欲しかったな、とは思った。それでも、私はいい演奏でいい曲が聴けた、と満足して帰って来た。
 ところで、今日の演奏会には、「東日本大震災心の復興祈念コンサート」という看板が掛けられていた。開演前に20分以上の時間を費やして行われた佐々木先生のプレトーク(というよりレクチャー)でも、東日本大震災の犠牲者に対する追悼云々ということが繰り返し語られていた。例によって、私はこれには賛成しない。追悼なんて、個人個人が勝手にやればいいのだ。私は、顔も名前も知らない多数の犠牲者を、まとめて「追悼」するなどという心境には全然なれない。なにしろ「レクイエム」である。祈りの音楽であるということはみんな分かっているのだから、主催者が震災と結び付けて訴えたりする必要はないのだ。
 一方で、佐々木先生のレクチャーはなかなかいいことも言っていた。「レクイエムは鎮魂曲と訳されますが、それが誤解の元なのです。私たち人間が死者の魂を鎮めるなどということができるわけがありません。それは思い上がりです。レクイエムとは、鎮魂を神に祈る曲です。魂を鎮められるのは神だけなのです。ブラームスのレクイエムは、同時に、人の死後に残された人を励ますことをも目的にしています。ブラームスは、この曲のタイトルを、「ある人間のためのレクイエム」でもいいと、ある人への手紙に書いているのです。」私は、この曲を聴きながら、東日本大震災の犠牲者を悼む気にはならないし、最近身近で誰かが死に、悲嘆に暮れているという状況にあるわけでもない。だが、なぜこの曲が私に対して価値を持つかと言えば、確かに、私はこの曲から何かしらの励ましや慰めを得ているような気がする。たとえそれが、歌詞どおりの内容のものではないどころか、なんら具体性を持たないにしても、だ。このことは、抽象的であるが故に普遍化させやすい、いわば音楽の特権を象徴しているのではあるまいか?