私は能楽に冷淡ではない(1)

 細かく目を通して下さっている方はお気づきだろうが、先日、「上田龍一」君からコメントがあった。次のような、わずか一文の短いコメントである。

 「先生はオペラやクラシックに対する造詣も深く、国語教師というご職業なのに、なぜ能楽に対しては冷淡でいらっしゃるのか。。。疑問です。」

 私の西洋音楽に対する造詣が深いかどうかは知らないが、これは考え甲斐のある問題なので、コメント欄ではなく、本文で回答しようと思いながら、北海道に行ったり、震災から丸5年という騒ぎがあったりしたために、後回しになってきた。思いつくままに書いてみようと思う。
 日本の数ある伝統文化の中で、私が文句なしに面白いと思うのは、歌舞伎と狂言である。次が文楽であろう。また、高尚なる芸術としては扱われていないが、民謡と民間器楽(三味線や尺八)は大好きだ。いや、これこそが私の日本人としてのDNAを最も強く刺激する分野かも知れない。一方、最も苦手なのは能と雅楽である。雅楽が苦手な理由は非常にはっきりしている。雅楽が苦手なのではなく、「笙」が苦手なのだ。「笙」というミニパイプオルガンのような楽器は、高音の成分を異常に多く含む上、息を吹いても吸っても音が出るので、メリハリがなく、聴いていて苦しくなってくるのだ。追い詰められてくる感じ、と言ったら、分かってもらえるだろうか?
 さて、確かに苦手な能楽
 これは動作があり、音楽があり、テキストがある、という点からすると、西洋音楽におけるオペラに近い。だが、動作はあまりにも抽象的であり、ストーリーを分かりやすく、リアルに伝えるという点で上手くいっているとは思えない。テキストは、オペラの台本なんかに比べると、はるかに文学作品としてよくできている。先日も少し触れたとおり、ワーグナーやR・シュトラウスの台本は、ヴェルディを代表とするイタリアオペラの台本に比べるとはるかに文学的であるが、それでも、私は能楽のテキスト(謡曲)の方がレベルが高いのではないか、と思っている。
 音楽についてはどうだろうか?
 人間が異文化を理解する時、ただ接しただけで理解出来る場合もあるが、そうでない場合もある。そうでない場合は、どうすればいいかというと、感性ではなく、知識によってその文化に接近しようと努力するのである。これは、古文や英語の学習でも同様で、その学習方法を意識してみると分かりやすい。つまり、英語は感性や聞き込みだけでは理解できないから、文法を勉強し、構造を分解しながら意味にたどり着いていく。現代語の文法はほとんど学ばないし、学んでも無意味感に徒労を感じるが、古文を読むのに文法は必須だろう。感性というか、経験の蓄積に基づく直感的理解が出来ないから、文法に頼るのである。文法は最後には忘れてしまった方がいいが、入門のためにはどうしても必要だ。
 私にとって、西洋音楽、特にクラシックと呼ばれる音楽は、同じ旋律が繰り返される退屈な音の羅列でしかなかった。それが、「音楽」として価値ある音の秩序(文化)に見えてきたのは、ソナタ形式ロンド形式といった様式についての知識を獲得することによってであった。加えて、楽曲の様式、楽器の性能や形態、作曲家についての伝記的知識といったものによって、音楽の変化を時系列の中でたどり、人間の表現欲の歴史に思いを致すことも面白い。ところが、日本の伝統音楽はそれを許さない。(続く)