我が家のお花見

 昨日は、我が家の「お花見」であった。敷地の中に桜の木はないのであるが、隣接する土地に2本の立派な桜の木があって、我が家の客間の障子をはずすと、窓いっぱいに花が広がる。
 この3日ほどの異常な陽気で、週の半ばに満開だった我が家の庭の梅はすっかり散ってしまったけれど、水仙も八分咲きだし、肝心の桜はどんぴしゃ満開!加えて、海がよく見える(今年はウグイスの鳴き声が聞こえないのだけが本当に寂しい→参考)。石巻でも、晴れて18度近くまで気温が上がった昨日は、絶好のお花見日和であった。職場を中心にあちこち呼び掛けて、25人ほどの人が来てくれた。
 とは言え、平居家の面々を慕って、というわけでも、満開の桜を、というわけでもなかったかも知れない。我が宮水の誇る調理類型の先生=板前さんが2名来て、4時から「お寿司屋さん」を開いてくれることになっていたからである。
 学科改編の完成年度、調理類型初の卒業生が出る予定の今年は、調理の先生が3名になった。うち2名は和食専門調理師(という資格が存在する。ただの「調理師」よりグレードが高い)である。昨年度からいるS先生は、調理師学校の先生を20年以上も務めていた方、今年来たM先生は、県内の某ホテルから来た。こういう優れた人材を、公費の制約で札束を積み上げるわけにもいかないのに、どのようにして引っ張ってくるのか、その力学は謎である。
 M先生は、全然見ず知らずの状態で、誰かに「この人の職業は何だと思いますか?」と聞かれても、迷わず「板前さん」と答えてしまうような方である。軽薄な感じが一切せず、寡黙で清潔感があって、質実な感じがする。それだけでも「素敵だなぁ」と思っていたが、一昨日の夜、全職員による歓迎の宴でスピーチを聞いて、私は更にしびれてしまった。
 大雑把に言って、「私は学校を出て以来、ずっと板前一筋にやってきました。私にとって、口というのは、ひたすら味見をするためだけにありました。ですから、その口で何かを話すというのが苦手で、学校での生活は本当に不安です。生徒にどのようにして何を伝えればいいのか、今の時点では分かりませんが、S先生の下で、少しずつ勉強していきたいと思います。」みたいな内容だった。「一途な生き方」を体で表しているようなものではないか。
 二人とも、高校卒業後、教職課程なんて取っているわけもなく(そもそも、調理師学校にそんなものないだろう)、従って、教員免許なんて持っていない。「教員免許」などと言っていた日には、誰も来てくれず、高校で調理師免許を取らせることなんか出来ないので、県は特例として、彼らに免許を後出しする。もちろん、それで何の問題もないどころか、人間性においても、専門分野における技能においても、少なくとも私よりはよほど優れている。M先生が、仮に本当に訥弁であったとしても、生徒はその手元を見つめ、言うことを聞いて多くを学ぶと思う。
 さて、そんな先生方が、我が家の花見のために準備をし、我が家の一畳ほどの大きさのダイニングテーブルをすし屋のカウンターにして、食べたい放題、すしを握ってくれるというのは、本当にこの上もない贅沢であろう。
 和気あいあい、宴会は9時まで続いた。板前さん達は、みんなが食べられるだけ食べたのを見届けると、いろいろ都合があるらしく、さっと店終いをし、「喜んでもらえてよかったです」と言いながら帰ってしまった。6時過ぎのことである。その引き際もまた美しかった。主催者である私がへろへろ酔っ払っていて、本当にごめんなさい。