タテマエの「合法」は許されるのか?

 バドミントンの2選手が、違法カジノをやっていたということで、厳しい処分が下された。そして今日は、新たに違法スロット発覚だ。私は、プロ野球選手と一部のプロサッカー選手以外は、さしたる収入もなく、見た目が派手な割に苦しい生活をしているに違いないと思っていたので、博打で負けが1000万円とかいう話を耳にすると、少し意外で、裏切られた感じさえしてしまう。
 目立つ人、地位の高い人が、それ以外の庶民に比べると厳しく身を律しなければならないというのは理解できる。やっかみ半分の批判も多いだろうが、世の中に対する影響力がそれなりにあるのだから仕方がない。バドミントン協会なり所属する会社なりの下した処分が、果たして重いか軽いかは判断つかない。私のような外野のとやかく言う話でもなかろう。だが、今日の「違法スロット」の話を聞いていて、にわかに「ちょっと待てよ」と思うようになった。
 そう思うようになったのは、この世に「パチンコ」というものがあるからである。選手達がやったという「違法スロット」がどのようなものかは知らないが、「パチンコ」は博打ではないのだろうか?一見「合法」ではあるが、実際に行われていることは「違法」なのではないのだろうか?むしろ、「違法」であるはずのことを、「合法」の範囲内と見せかけながら存続させている点にこそ、より深刻な悪があるのではないのだろうか?そして、おそらく大抵の(全ての?)パチンコ屋にはスロットマシンもある。違法スロットと合法スロットにどの程度の違いがあるのかを、私は知りたい。
 以前も取り上げた若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(祥伝社新書、2010年)によれば、日本でパチンコが「合法」なふりをしていられるのは、パチンコ業界と政治家、警察官僚が癒着しているからである(→こちら)。パチンコという日本の社会の構造的な悪に比べれば、バドミントン2選手の個人的な違法行為など、悪として取るに足りない。それでいて、片方はタテマエの「合法」によってのさばり、片方は「違法」だとして厳しい制裁を受けるというのは、どう考えてもアンバランスだ。
 職員会議などでもよく感じることなのだが、問題とされ紛糾する案件には些細な問題が多く、本当に深刻で重大な問題は問題とされない。深刻重大な問題を問題にすると泥沼にはまる、権力と対立関係にならざるを得ない場合も多い、それを面倒とする気持ちもあるかも知れないが、本当のところは分からない。なんだか、人間の業というか、愚かさの表出であると感じる、というのが正直なところだ。
 こんなことを考えていたら、どうも2選手に対する同情が兆してきた。そして社会全体に対する反感がつのるばかりである。