ニコラウス・アーノンクール(1)

 3月5日にニクラウス・アーノンクールが死んだ。オーストリア出身のチェリスト、指揮者、いやそれ以上に音楽学者。音楽学者としては非常に面白いが、音楽家として特別好きな人ではない。それでもせっかくの機会だからと探してみれば、出てくる出てくる。我が家の中からだけでも、全てベートーヴェン以前の曲ばかり、20枚以上のCDを発見した。というわけで、この1ヶ月あまり、暇を見付けては、「ながら聴き」でそれらの録音に耳を傾けてきた。加えて2冊の本。1冊はアーノンクールのモーツァルテウム音楽院での講義録を中心とする『古楽とは何か〜言語としての音楽』(音楽之友社、1997年)、そしてもう1冊はモーニカ・メルトル『ニコラウス・アーノンクール〜未踏の領域への探求者』(小谷民菜訳、音楽之友社、2002年)である。
 どこかの新聞の訃報に、アーノンクールの演奏に対する批判の一つとして、音の強弱の幅が狭い、ということが紹介されていたように記憶するが、私の印象は逆だ。音の振幅が非常に大きく、ライブで聞くのはいいかも知れないけれど、録音で聴くのには不向きだ。ピアニシモを聴き取ろうとすれば、フォルティッシモに驚き、フォルティッシモに合わせれば、ピアニッシモが聴き取れない。結果として、我が家にあるCDの中では、彼の出世作モンテヴェルディ聖母マリアの夕べの祈り」(ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)とモーツァルトフィガロの結婚」(アムステルダム・コンセルトヘボウ)が一番いいと思った。
 とは言え、以前の印象通りだったのだが、今回も一番面白かったのはメルトルによる評伝である。書き方が上手い、とはあまり思わないが、アーノンクールがオリジナル演奏(音楽が作られたその時代のやり方で演奏すること)の「開拓者」であるだけに、舞台裏には格別の面白さがある。だが、その中で特に印象に残ったのは必ずしも学問とは関係のない、カラヤンとの関係のような気がする。
 アーノンクールは、1952年、23歳の時にウィーン交響楽団のオーディションを受けた。募集されたのは、チェロの一番後ろの席二つである。ところが、このオーディションは、予め採用者が決まっている出来レースだったらしい。アーノンクールがポストを獲得できる可能性はゼロだった。時の音楽監督は当代最高の審美家・カラヤンである。こともあろうにカラヤンは、コネやそれまでの楽団との関係で予め決まっていたはずの二人を落とし、アーノンクールを含む予定外の二人を合格とした。やがて、カラヤンは、アーノンクールを最前列に移そうとする。オーケストラの中では、上手な演奏者ほど指揮者に近い席に座ることになっている。カラヤンは、チェリストとしてのアーノンクールを、ウィーン交響楽団のトップと考えたのだ。この場面について、メルトルは次のように書く。

カラヤンの希望とは通常、命令である。これは微妙な状況であった。昇進すれば仕事量はより少なくなり、収入はより増えるだろう。しかし、それでは、自身が目指すのとは違う方向に一層踏み込むことになる。考えるまでもなく答えは決まっていた。」

 つまり、演奏者としてカラヤンの評価に応えれば、アーノンクールは自分が思い描くのとは違う、むしろ正反対の音楽活動をせざるを得なくなる。自分自身を貫くために、アーノンクールはそれを拒否した。(続く)