レリオ・・・仙台フィル定期演奏会も第300回!!

 仙台フィルの第300回定期演奏会に行った。私は宮城フィルの第18回定期(1981年4月18日)以来の付き合いだ。行ったのは282分のいくつかなぁ?
 今日行ったのは、出演者とか曲目よりも、その「第300回」に引かれてである。このような記念演奏会は、出演者も聴衆も「気持ち」が違うし、今までの例から行くと、過去の演奏会記録その他の「オマケ」が付く。そんな期待の方が大きかった。実際、第1回から第300回までの演奏会記録は、プログラムとは別に、1冊の冊子としてもらえた。他のオマケはクリアファイルだけだったけど・・・。
 指揮者が常任のパスカル・ヴェロであるのは当然として、曲目はベルリオーズの「幻想交響曲」と「レリオ」。「レリオ」は演奏されることの滅多にない「幻想交響曲」の続編で、音楽と言うよりは「音楽劇」だということは、以前から知っていた。我が家にはE・インバル+フランクフルト放送響によるCDもある。CDで聴いていると、何しろ音楽劇なので、フランス語が分からないと何が起こっているのかよく分からない。いくら「幻想」も「レリオ」も、ベルリオーズの失恋譚だ、と分かっていても、それだけではダメなのである。語りの部分が長いこともあって、何の魅力も感じない。今回の演奏会では、語り(歌手ではなく、俳優・渡部ギュウ)は日本語だと予告されていたので、意味が分かる形でライブで聴けば、また印象も変わるかもしれないという期待と好奇心とは一応持っていた。
 さすがは「第300回」。3月22日の河北新報に大きな予告記事(練習の進捗状況など)が載り、今日の同紙には、昨日行われた初日公演の様子が、写真入りで記事になっていた。仙台フィルにしては珍しく、今日の2日目も、明日の東京公演もチケットは完売、とある。記事を見て行きたくなった人がいたら気の毒だな。(私の席の隣は、10席くらいごそっと空いていた。会場の一番奥の隅だったこともあって、演出で使うのかと思ったら、最後まで空席のままだった。??)
 「レリオ」だけではなく、演奏会全体が一つのドラマ仕立てになっていた。真っ暗なステージに演奏者(指揮者も含む)が登場し、オペラハウスのピットのように、譜面台に小さな明かりを付け、音合わせもなく、静かに「幻想交響曲」が始まる。指揮者登場という場面もないから、当然、拍手もナシだ。舞台の左手にちょっとした書斎のようなセットがしつらえてあって、そこだけスポットライトが当たっている。「幻想」では出番のないはずの渡部ギュウが、机の前に座り、立ったり座ったり、字を書いたり酒をあおったり、失恋に苦しむ芸術家をパントマイムで演じている。ステージ全体が明るくなったのは第1楽章の途中で、渡部ギュウは第3楽章だけ舞台裏に下がり、第5楽章ではまた照明が落ちる。「幻想」が壮麗に終わったとき、真っ暗なステージに向かって拍手は起こったが、出演者は静かに袖に消えた。
 この曲に関しては、演出はどうでもいいのだが、いつ聴いても、何度聴いても、本当によくできた面白い曲だな、と思う。ベートーヴェンからわずか数年後に、これほどユニークで大規模な曲が書かれたというのは、文化史上の奇跡の一つである。今日の演奏も大変よかった。演奏時間50分を要するこの曲が、通常の演奏会で、冒頭に演奏されることはあり得ないので、私なんかは「幻想」が終わった瞬間に、今日はこれでおしまいという気になってしまった。堪能した、と言うよりは、条件反射である。
 さて、「レリオ」。CDで聴いて、何だこりゃ?!と思っていた時よりは、はるかにちゃんとした「音楽」に聞こえた。音楽的に、「幻想」よりは「ファウストの劫罰」に近い。演奏も大変立派な熱演だった(特に太鼓類が秀逸)。日本語による語りは、ホールの残響が長すぎて聞き取りにくかったし、がんばって聴いたところで、たいしたことは言ってないな(笑)、と思ったが、それでも何となく面白かったのである。黒い衣装を着た合唱メンバーがぞろぞろと会場を出たり入ったりしながら歌う演出も、なかなかストーリーにふさわしい雰囲気を作っていた。ベルリオーズによる指定では、聴衆に見えるのは語り役だけで、他の出演者は幕の背後で演奏することになっているのだが、それはつまらない。プログラムにも新聞記事にも演出者の名前が書いていないので、指揮者のアイデアなのかと思うが、上手くやったな、と思った。
 半ば「オマケ」目当てで行った演奏会だったが、貴重な経験をしたと同時に、質の高い舞台に接した充実感があった。フランス路線は、私としてはあまり継続して欲しくはないのだが、次の100回へ向けて期待の持てる演奏会だった。