保育所と原発は同じか?

 かの有名な「保育園落ちた死ね」事件(?)から2ヶ月近く。この間、保育園(保育所)、いや、待機児童問題に接しなかった日というのがないほどだ。幸い、田舎住まいの私は、東日本大震災で身の回りが大混乱に陥り、子供たちが通う保育園が廃園になってしまった時でさえ、不思議と保育園探しに困るということがなかったので、あまりリアルではないが、都市部は本当に大変なのだろうな、と想像はつく。
 保育園が不足していて困った困ったという一方で、千葉県市川市で新たに作られる予定だった保育園が、近隣住民の反対に遭って開園を断念したというニュースが流れたと思ったら、先週金曜日の読売新聞には、「保育園 断念や延期相次ぐ」という記事が出た。子供の声がうるさいといって反対運動が起き、保育園が作れないという事態が、全国のあちらこちらで起こっているという。
 電気を節操もなく使い、電気代が高いと文句を言い、安く電気を供給してもらうためには原発やむなし。だが、自分の家の近くに原発を作るとなると反対。日米同盟は必要で、米軍の日本駐留はやむなしと言いつつ、身近なところに基地ができるのは嫌。贅沢な生活をし、様々な産業の恩恵は受けていながら、産業廃棄物の処分場は絶対自分たちの町には作らせない。原発産廃処理施設はよその町へ、基地は沖縄へ・・・こういう動きと、現象としては大変よく似ている。だが、果たして同じだろうか?
 もちろん、メリットは享受したいが、それによって生ずるデメリットを被るのは嫌、というある種の気勝手さは共通するのだけれど、原発、米軍基地、産廃が命や健康に関わってくる問題であるのに対して、子供の声は命にも健康にも関わらない。騒々しさがストレスで、精神疾患になるということがないとは言わないけれど、その可能性を問題にする気にはなれない。
 なぜなら、子供の声は「自然」であり、誰しも幼い頃には自分も黄色い声を上げていたのである。保育園や幼稚園のような、子供を集めて集団生活させるという組織は、確かに文明の結果として後から生み出されたものかも知れない。だが、仮にそのような施設がなかったらなかったで、子供たちはどこかで元気に走り回る必要があるのである。原発や軍隊や産廃に比べると、それははるかに人間にとって本質的なものである。高齢化が進む社会で、子供の声が聞こえてきて癒やされるとか、活性化されるというならともかく、うるさくて迷惑だというのは悲しい。私がよく言うとおり、人間が自然から離れ、身勝手になった結果なのだな(→参考記事少子化について)。そう思うと、保育園問題は、原発産廃、米軍基地なんかよりもたちの悪い問題である。
 待機児童の解消を急かされる行政も大変だ。「やってられるかぁ!」と声を荒げたくなる状況だろう。こうして、どこもかしこも渋面を作り、世の中はゆがんでいく。難しいけど、やはり現象の末端をいじって何とかしようとするのではなく、根源的な解決を目指すしかない。それは「豊かさ」の問い直しであり、経済成長を信じず、浪費の根っこにある石油に消費もしくは輸入の規制をかけることだ。