やっぱり「人為」はよくない

 今日の午前は、南浜復興祈念公園の説明会だった。協議会での議論も踏まえた上で(本当かな?)決定された公園の計画を市民に説明するための会である。場所は我が家から徒歩10分弱の石巻中央公民館。
 と書けば、いかにも行ったみたいだが、実は行っていない。もう今更話なんて聞いても時間の無駄。バカバカしいから行かなかったのである。私が知りたいのは、新聞にも発表された公園計画の詳細などではなく、100年後の人々が、この公園をどう扱い、何を考えているかだ。
 夕方、テレビのニュースで様子は垣間見た。満席などではないが、思ったよりも人は集まったかな、と思った。ステージ上にもフロアにも、知っている顔がたくさん見えた。明日の新聞に記事が出るだろう。
 話は変わる。
 数日前、複数の公立学校の教員が、話をしている場面に行き合わせた。「私は今でも借り上げ仮設暮らしだ」と言っているのが聞こえた。その瞬間に私が猛烈な不愉快を催したのは、彼らの表情に、「早く本当の自分の家に住みたい」ではなく、「しめしめ、ラッキー!」という思いがありありと見えたからである。
 どうも、その人達は、自宅を流されたわけではないらしい。アパートか借家住まいで、津波の被害を受け、すぐには家が確保できないので、仮設暮らしとなった。しかし、幸運にも、プレハブ仮設ではなく、借り上げアパートに入れた。家財に多少の被害はあったようだが、それまでと同じ生活が、家賃ゼロで始まっただけのことである。「良心の呵責」というものを感じずに済むなら、これは確かにおいしい情況だろう。だが、それはあくまでも「良心の呵責」を感じずに済むなら、である。私が彼らの立場だったとして、借り上げアパートに5年以上無賃で住み続ける勇気も、そんな話を人前で声高にする勇気もない。
 石巻でさえ、お金があっても家の確保が難しかったのは、せいぜい震災から2年である。いやしくも公立学校の教員が、お金に困っているはずもない。住む場所を自力で確保できる状況にありながら、仮設住宅の期限延長に従う形で借り上げ仮設も更新され、家賃が公費で負担されることに便乗する形で、そこに居続けることは制度の濫用もしくは悪用、というやつである。
 これは制度も悪い。私は結構早い時期から言っていたと思うが、被災地も被災者も事情は千差万別である。そこに「一律」を適用すると、様々な不条理が生じてくる。もちろん、個別の対応は手間もかかるし、公の仕事には明瞭な基準も必要なので、その点でも難しさがあることは理解する。ずるい奴が得をするのに多少は目をつぶって、弱者の救済を最優先にしなければならない場合もある。
 それでも、震災から既に5年あまりである。いくらなんでも、収入のある人からは家賃を取るのが当たり前。百歩譲っても、それを免除していいのは自宅が流失・全壊した人だけだろう。いまだにそれをしないのは、行政の怠慢と、税金の使い方に対する市民の意識の低さ以外の何物でもない。
 どうも、震災後の「人為」には愉快なことが本当にない。