左藤さんのコップ

 以前、石巻市内にある「観慶丸」というお店の話は書いたことがある(と思う)。石巻離れした洗練された器屋さんである。陶器もガラスも、漆器も扱っている。工場生産の一般的な器を多く扱う観慶丸本店から、道路一つ挟んだ向かい側に「カンケイマルラボ」という姉妹店があり、こちらは量産品を扱わず、作家の個展のようなことだけをしている。いつも開いているとは限らない。非常に質の高い、工芸品とも言えそうな器だけを扱う。骨董品ではないが、ここで扱っているものには、入手困難な物も多いらしく、誰々の個展をやる、となれば、東北六県はおろか、首都圏からもお客さんが来るというすごいお店である。
 個展が開かれると、たいていは作家自身が来店し、その日は小さなパーティーも開かれる。縁あって、ほとんど買い物もしないのに、私はパーティーに呼んでもらえる。日頃接する機会のない「作家」なる人とお話ができるのが面白くて、私はほとんど皆勤賞だ。
 今は、左藤玲朗さんという千葉県在住のガラス作家の個展をやっている(今週金曜まで)。先週の土曜日は、そのパーティーであった。半年ほど前に、店主から「はじまりのコップ 左藤吹きガラス工房奮闘記」(木村衣有子著、亜紀書房、2015年8月)という、左藤氏の仕事について書いた本をいただいたが、他事に紛れて「積ん読」していたのを、あわてて探し出してきて、パーティー直前の2〜3日で読み、予習万全でラボに行った。
 私は、「サトウレイロウ」という名前を初めて聞いた時、「レイロウ」は作家としての「号」ではないか?と思った。中国には昔から「玲瓏」という言葉がある。日本語の音読みでは「レイロウ」だが、中国語で読むと「リンロン」と発音し、ガラスや玉が触れ合って出る澄んだ音の形容である。風鈴の音がイメージとしては近いかもしれない。ガラスのきらきらしたイメージが重なり合ってきて、ガラス作家の号としてはなかなかいい。まさか、「玲瓏」という字をそのまま当てるわけにはいかないから、人名として自然なものにするために「玲朗」なわけだ。ところが、これは全く私の勝手な想像(妄想)であり、「玲朗」は本名らしい。大学で中国文学を専攻し、高校教師(国語)の経験もあるという変わり種である。
 この店のおかげで、今までいろいろな「作家」にお会いすることができた。「作家」という言葉に、人々がどのようなイメージを抱くのかはよく分からないが、私なんかは、繊細すぎて気難しく、よく言えば気高い、悪く言えば高慢ちきなイメージを抱く。しかし、実際に会った「作家」でそんな人は一人もいなかった。ラボに呼ばれる人だからかもしれない。作家、作家と言ってはいるが、「職人」と言った方がぴったり来る人が多く、中には「工人」という雰囲気の人もいる。みんな独自の世界を持っていて魅力的だ。机上で文字と向き合うのではなく、手で物を作っていることによって生まれてくる雰囲気なのだろう。
 左藤さんとお話をしていて、「自分の作った器を使う人が、どんなものを求めているか、それをいつも考えながら仕事をしています」というようなことをおっしゃった時、私はふと違和感を感じた。どうも、私の印象から言うと、人の評価を気にしながらした仕事に本物はなく、自分が本当に作りたいと思って作ったものが人の心を引きつける、それこそが本物だからだ。私は左藤さんに、そんな思いを正直に話した。すると、左藤さんは、「私には本当に作りたい物なんてないんですよ」とおっしゃる。普通に考えれば、会話はここまで。私にとってサトウレイロウは本物ではない、ただの安っぽいガラス器製作者に過ぎない、ということになる。
 ところが、実際にそうなったわけではないのは、会場に展示された彼の作った器を手に取ってみて、どうしても媚びた感じがしないからである。何の変哲もないただのコップの類いだ。手作りらしいと言えば、確かに手作りらしく、それが魅力の一部ではあるのだが、けっこうでこぼこの多い均質性の低い作品である。だが、とても素朴で、地に足がついた感じがし、日用品として飽きが来ないのではないか、と思わされる。
 心にひっかかるところあって、昨晩、店を閉めた後のラボに別の用事で行った時、広口のコップをふたつ買ってしまった。左藤さんによれば、自分が作ったものを人が買ってくれるというのはものすごく気持ちのいいことで、それは物つくりにしか分からない快感なのだそうだ。どうせなら、左藤さんの目の前で買ってあげればよかった。優柔不断だからこんなことになる。