獺祭 だっさい

 もはやずいぶん前の話で、話のきっかけが思い出せないのだが、「獺祭(だっさい)」という山口県の酒が話題になった。近年(?)ひどく評判の酒で、なんと、我が宮水には「酒は獺祭しか呑まない」「日本酒は獺祭なら呑める」という人がいるから驚く。私には、そこまで特別な酒には思えない。
 ともかく、勤務先のN嬢と「獺祭」の話になった時、私は「ところで、獺祭って意味知ってる?」と聞いてしまった。彼女は知らなかったので、私は若干の講釈をした。「獺祭の獺はカワウソ、祭はまつりという意味だけど、昔から、カワウソは獲った魚を並べる習性があると言われてきた。本当か嘘かは知らない。ただ、その様子が非常にお行儀がいい、更には昔の中国で「礼(天=神に対する謙虚な気持ちを象徴する)」を知っていると理解され、滑稽なことに道徳的評価をされてしまった。だから、中国(儒教世界)ではカワウソでさえ「礼」を知っているのだから、人間はしっかりしなくては・・・みたいな文脈でよく語られる。」
 こんな話のどこが面白いのかよく分からない。ただ、N嬢のツボにはまったらしい。N嬢が何かにつけて、人に「獺祭」の講釈をしているという話が、いろいろなところから聞こえてくるようになった。ただし、だから酒が美味くなったとか不味くなったとかいう話は聞かない。
 そうしていたところ、先週土曜日の朝日新聞土曜版「be」に、獺祭の話が載った。「食べテツの女」という小さなコーナーだ。見出しには「かわうそ由来 客を呼べる酒」とある。清酒「獺祭」のラベルに書かれている説明書きが引用されている。なんだ、ラベルに書いてあるんじゃん。私もN嬢も、ラベルをまじめに見ていなかった、というだけだ。
 ともかく、それによれば、「カワウソが捕らえた魚を岸に並べて祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時、多くの参考資料を広げちらす事をさす」ということだそうだ。前段は私が言ったとおりだが、後段はむしろ逆だ。「礼」を知るどころか、少々だらしがない。学生時代に「儒教」を学んでいた私としては、たいへん意外だ。
 どうしてこんな意味になるのだろう、誰が言い出したのだろう、蔵元の理解だとしたらケシカラン、場合によっては文句の一つも言わねば、と思いながら、とりあえず我が家の『広辞苑』を引いてみた。すると確かに、2番目の意味として、「転じて、詩文を作るときに、多くの参考書をひろげちらかすこと。正岡子規はその居を獺祭書屋と号した」と書いてある。次に『大漢和辞典』だ。するとほぼ同じ意味があって、「作詩文に数多の参考書を座の左右に広げること。詩文を作るのに多く故事を引くこと。」と書いてあって、用例は『談苑』(北宋=11世紀前後に書かれた逸話集)である。そこには「李商隠は文章を書く時に、多くの本を参考にし、左右に並べる習慣があったので、自ら“獺祭魚”と号した」(拙訳)と書いてある。李商隠晩唐(9世紀)の詩人である。正岡子規とは比較にならないくらい古い。明らかに子規はパクリだ。
 ふ〜む、蔵元がかってに書いているわけではなく、それなりに歴史背景があるのだな、と思った。こんなことでも、少し調べてみると面白い。N嬢はますます大喜びだ。
 こんな話をしていたら、その場にK嬢がやって来た。N嬢はさっそく、K嬢に向かって「復習」をしている。K嬢もこの話をひどく気に入ったらしく、目を輝かせて聞いている。話が終わると、「作業」が始まった。インターネットで、カワウソが魚を並べている可愛らしいイラストを探し出し、その横に少し濃いピンクで文字を入れた。ポスターの完成である。入れた文字とは、「獺祭中」。様々な書類を机のまわりに散らかしながら仕事をしている時に、机の前に掲示するのだそうな・・・。へ?そんな掲示出したら、「何それ?」とか、「どういう意味?」とか聞かれて仕事にならんよ・・・。