中村紘子

 先月末、新聞で、26日に中村紘子が死んだことを知った。まだ72歳だったという。千代の富士に匹敵する驚きを持って訃報を読んだ。
 戦後日本の第1世代として幼いうちから頭角を現した天才少女、美貌のピアニスト、教育者やエッセイストとしても一流・・・というような評価を聞くと、天の邪鬼な私は敬して遠ざけたくなりそうなものだが、なかなかどうして、これでいてちょっとしたファンなのである。見た目は私好みでなく、エッセイも読んだことはなく、教育者や審査員としての活動などよく知らないのだが、ピアノは絶対に面白い。そして、彼女がピアニストである以上は、それで十分である。
 実演に接したのは2回だけである。最初は、1982年4月5日、尾高忠明+日本フィルでチャイコフスキー、2回目は1995年6月7日、E・スヴェトラーノフ+ロシア国立交響楽団ラフマニノフの2番、どちらもオーケストラのソリストとしての舞台だった。強烈に印象に残っているのは後者である。「男勝り」という表現は今やよくないのかも知れないが、その表現がぴったりする強靱なタッチと大きな音。なんだか日本離れしたダイナミックな音楽作り。ロシアのオーケストラを背後にしているから、つられてそうなったのかとも思ったが、オーケストラの性質でソリストの音楽がそれほど変化するとは考えられない。むしろ、中村紘子のそのような演奏の性質を知っていて(興業上の問題もあったかも知れないが・・・)、スヴェトラーノフソリストに彼女を選んだに違いない(私は持っていないが、同じメンバーによるCDが出ているはず)。およそ見た目とはアンバランスな、粗野にも近い、それでいて人を引き付ける音楽だった。私は手に汗握って聴いていたのをよく憶えている。
 中村紘子が危ないというのは、メディアの中ではよく認識されていたのだろう。昨日、早くも追悼番組「中村紘子さんの残したもの」(Eテレ)が放映された。オリンピックの影響か、午前0時から1時間半という番組だったので、録画しておいて朝食後に見た。
 1960年にN響が世界楽旅をした際、弱冠16歳でソリストに選ばれ、イギリスでショパンのピアノ協奏曲第1番をスタジオ録画した映像(指揮はヴィルヘルム・シュヒター!!)があった。昔、中村紘子が振り袖姿で何かの協奏曲を弾くのを見た記憶があるのだが、ああ、この映像だったのだ、と懐かしく思いながらも新鮮な気分で見た。
 私が感じていた中村紘子の独特な演奏スタイルについても、この番組を見て、少しその秘密が分かったような気がした。中村は3歳の時から桐朋学園「子どものための音楽教室」で齋藤秀雄に教えを受け、4歳からは井口愛子に師事したが(後者は番組では紹介されていない)、そこでは指を立てて鍵盤に叩きつけるように弾くよう教えられた。一方、N響との楽旅後、ジュリアード音楽院に入学すると、指を寝かせて、指先が鍵盤に吸い付くようなタッチで弾くことを求められた。いくらジュリアードで、そちらの方が新しい合理的なやり方だと言われても、15年間正しいと信じてトレーニングを重ねてきたやり方は、容易に変えることはできない。中村は、この二つの方法論の狭間で苦しんだらしい。練習に励んではやり方を模索し、自分としての答えを見出したのは、50歳頃のことだという。50歳と言えば、私がラフマニノフを聴いて感銘を受けた時期である。なるほど、彼女の激しい奔放さを支えていたのは、二つの弾き方のせめぎ合いの結果だったのだな、とひどく自然に納得出来た。
 番組の最後に、1997年にN響と共演した時の映像が、ノーカットで放映された。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。指揮者はなんとスヴェトラーノフである。難曲ということもあり、多少のミスタッチはあったが、確かに中村紘子らしく激しいチャイコフスキーだった。映像のおかげで、音の強さはリアルでなかった一方、客席からよりも演奏する姿を間近に見ることが出来たのはよかった。改めて、個性というものの偉大さを思う。
 中村紘子を思い出すにつけても、今の若いピアニストは小粒だと思う。亡くなるのは10年早かった。合掌。