リバイバル:履修取り消し(1)

 昨日書いた通り、歴史資料として公開しておく。2009年9月14日の学級通信(担任所感)である。冒頭のエッセイ風の部分は省略。


【履修取り消し、または一高の伝統】

 一部の履修取り消し手続きについて私が難色を示す、または承諾を拒否していることが、不興を買い、また物議を醸しているらしい。事はseriousで、該当者以外にとっても考える材料になる部分も大きいと思ったので、本当は授業を1時間くらいつぶして、できれば会話が成立することを期待しつつ話してみてもいいなぁ、などと思っていたが、考査直前でそんな時間を取るのは至難なので、文字にするとトゲが立つのは覚悟の上、私の考えを整理しておく。
(ブログ用の注:履修取り消しとは、3年生の夏休み明けに、卒業に関わる必修単位以外の単位を取り消してもいいという一高独自の制度である。今でも同様に存在し、運用されているかは知らない。あくまでも2009年時点での話である。生徒は、受験に必要ない科目の履修を取り消し、その時間、図書館や自習室で自分の勉強をすることになる(←あくまでもタテマエ。遊んでいるだけの生徒も少なくない)。この時、取り消し可能だった単位=科目は、数学Ⅱと社会の選択科目(政治経済または日本史)だったと思う。数学Ⅱは2年生で履修しており、3年生では復習=練習問題演習となっていたので、私は担任として取り消しを認め、申請書にハンコを押した。一方、社会科については、「これくらいのこと一般教養として勉強しろ、一生懸命勉強しろと言っているわけではなく、授業くらい受けろと言っているだけだ」と言って、頑なに取り消しを認めなかった。これが生徒たちの激しい怒りを引き起こしたのである。しかも、他クラスの担任はほいほいハンコを押していたのだからなおさらであった。私は教務主任に、これが形式的なハンコなのか、裁量権を伴うハンコなのかは確認してあった。生徒が申請書を持ってきた時、懇切丁寧に理由は説明したつもりだったが、この時の生徒の怒りと不満は激しかった。記憶に残る事件である。)

☆直接の発端はDHかも・・・

 夏休み前のDHの動き、もしくはそれに対する一高生の反応についての私の思いは多少話したこともあるだろう。結局、私は、それが社会的な問題意識とは似ても似つかぬ、非常に狭い世界で、自分たちの利益のみに汲々とする一寸哀しい姿に見えた。私の一高生についての危機感は急速に高まった。
(ブログ用の注:DHとは、当時一高内に存在した有志団体「一律共学化断固反対委員会」の略称である。ビラをまき、OB人脈も利用しながら、共学化を阻止するための活動をしていた。活動の詳細は書くに余り、私の記憶も曖昧だが、高校生の社会活動、政治的活動を熱烈に支持する気持ちを持つつもりの私も、この委員会の幼稚な発想と独善的な手法には問題を感じ、強い不満を持っていた。そのことは、折に触れて直接言ったし、他の学級通信でも随所に表れている。)

☆どうしてこんなことに・・・?

 これは今の時代の日本の高校生の一般的傾向なのだろうか?そんなことはないだろう。例えば、今年、オバマアメリカ大統領がプラハで、アメリカも核廃絶を目指すという劇的な演説をしたが、チェコの若者だけでなく、この演説には日本の高校生も反応し、広島ではオバマ氏を広島に呼ぼうというお手紙運動が、高校生によって提起され、ごく短期間に350通もの手紙が集まったという。なかなかあっぱれである。比べて悪いが、7月の臨時生徒総会に出されたDHからの文書や、県立高校の別学維持のために文科省まで行ってしまうのは一体何なのだろう?
 私は一高生を責める気は全くない。子供が悪いのは全て大人の責任である。とりあえず、今の一高教師陣の中に、今の一高生を生み出した原因を探してみると、どうも私には「受験至上主義」と、「諸君はエリートだ」という安易な動機付けとが見えてくる。教師が生徒に、社会的な問題意識や、人間の本質に関わるような理想主義的な生き方を何ら示すことができず、より偏差値の高い大学に、より多くを入れることを価値観として突出させ、口で「自発能動」を言いながら、何でもかんでも与えてしまう、というのが今の一高を作っている、と思う。(続く)