卒業式と寄せ書き帳

 何を今更という感じだが、先週の水曜日は卒業式だった。就職担当者としてそれなりに関わったはずなのだが、授業に行っていなかったこともあって、3年生の卒業に貢献したという気にどうしてもなれない。
 今年の生徒会誌に寄せた、「贈る言葉」は以下の通り。

「人は食べずには生きられず、食べられることは当たり前ではない。これからは農業と水産業の時代だ。頼むぞ。」

 何の説明もいらない。少なくとも、このブログの記事には何カ所も見られる私の本心だ。食べることに悩まなくて済む時代、あと何年続くかな・・・?
 特に縁のあったクラスも無かったので、卒業式が終わると、何の余韻も無く、1年生の成績処理に没頭することになった。そんな私を、一人の女生徒が呼びに来た。お母さんが会いたいと言っている、と言う。彼女の母親は、私の教え子だ。彼女との話が終わり、大きな花束をもらって職員室に戻ると、男子生徒が3人訪ねてきた。私が顧問を務める書道愛好会の生徒たちだ。熱心に活動する運動部などと違って、書道愛好会は集団としての一体感も無いと感じていたので、少し意外な気がした。
 生徒が私に「お世話になりました」と挨拶をして、色紙を差し出した。見れば、彼ら3人による寄せ書きだ。アロワナと思しき絵が描いてあるところが、水産高校らしいと言えば水産高校らしいが、墨書ではないところが、書道愛好会の実態を物語っていて面白いと思った。だが、7年間この愛好会の顧問をしていて、こんなプレゼントをもらったのは初めてなので、なんとなく嬉しいような気恥ずかしいような気がした。
 彼らが帰った後、そう言えば、最近は卒業につきものの「寄せ書き帳」を見たことがないな、とふと思った。かつては、卒業式前1ヶ月くらいになると、生徒が寄せ書き帳を持って、友人や教員のところを回る姿がよく見られた。もっとも、そういうことをするのは基本的に女生徒である。私は男子校暮らしが長かったから、「かつては」「よく」と言うことが許されるかは?だ。
 宮水も、昨年の卒業生までは、各学年に5人前後しか女子生徒がいなかったので、寄せ書き帳を見ないのも当たり前かと思っていたが、女川高校の閉校、学科改編=調理類型の新設といったことの影響で、女子生徒の数が一気に25人くらいに増え、今年はその増えた女子生徒が卒業する初めての春だった。それでも、寄せ書き帳はお目にかからなかった。
 人間は、「ある」ことに気付くよりも、「ない」ことに気付く方が難しい。だから、こうして寄せ書きの色紙をもらって、その温かな雰囲気に感動した時に、初めて寄せ書き帳を見る機会がなかったことに思い至った。これもまたデジタル時代の余波だとしたら、なんとも寂しい。
 2月の半ば、今年は年賀状が届かずどうしたのかなぁ?と心配していた、教員になったばかりの頃の教え子Hから、寒中見舞いのハガキが届いた。誰が亡くなったかは書いていないが、喪中により年賀状は出さなかったとのことである。印刷されたそのような文面の後に、続けて、手書きで「今年から手書きの日記を書き始めたのですが、手書きをすることで色々なことが見えてきて楽しんでいます」と書き添えてあった。さすがは私の教え子。高校卒業後25年以上を経て、アナログの価値に気付き、実践している。
 あまり極論めいた偏屈な考えに固執するのも良くないのは重々承知だが、電車や車はもとより、自転車でも見えてこない風景が、歩くと見えてくるというのはよくあることだ。ゆっくりであることには価値がある。やはり、何かを語り、人に気持ちを伝えるのに、手書きの早さは適当なのではないだろうか?文字そのものの味わいだけではない。そんなことを思う。