バッティストーニという若者

 今日は、約1年ぶりで仙台フィル定期演奏会に行った。アンドレア・バッティストーニというイタリア人指揮者を見てみたかったからである。1987年生まれで、今年ようやく30歳になる。昨年、東京フィルの首席指揮者に就任したからか、時々名前を聞くようになった。既にスカラ座にもベルリン・ドイツオペラにも登場済みの「イタリアの若き新星」(仙台フィルのチラシでは「新星」の前に「超」まで付いている)なのだとか・・・。仙台という田舎で、さほど高くないチケットで聴けるうちに聴いておこうか、と出かけて行ったのである。
 今日、プレトークのプレトークに登場した仙台フィルのMさんは、「100年に1人の逸材と聞いていましたが、この3日間の練習を見て、確かにそうだと思いました」と言っていた。演奏を聴く前に云々言うのも申し訳ないが、私なら恥ずかしくて、そんなことは絶対に言えないな、と思った。20世紀の有名な指揮者を思い出してみても、フルトヴェングラーワルターカラヤンバーンスタインチェリビダッケトスカニーニ、リヒター、セラフィン、クーベリックムラヴィンスキー・・・と、10人くらいから先、1人を絞り込むのは至難だ。「100年に1人」になることがいかに難しく、特別なことであるか。年に1人とか3年に1人くらいなら、私でもためらいつつ口にできるような気はするけれども・・・。
 曲目は、ロッシーニウィリアム・テル」序曲、「どろぼうかささぎ」序曲、ヴェルディシチリア島の夕べの祈り」序曲、プッチーニ交響的前奏曲ムソルグスキーラヴェル編曲)「展覧会の絵」。曲目だけでなら絶対に行かない演奏会だ。
 写真を見ていて、細身の精悍な若者かと思っていたら、案外太めだった。鼻息も荒く、歌を唱いながら(メロディーを唸りながら?)、ものすごいオーバーアクションで棒を振る。オーケストラはとてもよく鳴る。聴いていて面白い。だが、感じたのはせいぜい若々しさであって、音楽の奥深さ、心の底から揺り動かされるような感じはなかった。バッティストーニの指揮(音楽)を、私は「芸術」ではなく、「ショー」としてしか認識しなかったのである。
 曲目のせいでもあっただろう。「展覧会の絵」を名曲だと私は思わない。ラヴェルの着眼とオーケストレーション能力にはそれなりの敬意を持つが、曲はやはりエンターテインメントである。バッティストーニはその曲の各部位を、極端なまでに誇張し、彫りの深い曲に仕上げる。それにかろうじてわざとらしさや嫌らしさを感じなかったのは、彼の作為的でない、ありのままの若さのせいなのか、能力のせいなのか?私にはそんな見極めは出来ない。
 一番良かったのは、プッチーニだった。交響的前奏曲はなんと18歳の時の作品。10分ほどの短い作品だが、オペラ作曲家として大成する予感がぷんぷんする。まるで「歌劇的総組曲」とでも呼びたいような作品だ。天才というのは本当に凄い。バッティストーニの指揮も、「展覧会の絵」よりは、序曲3曲も含め、自然な歌心のようなものが感じられて好印象だった。それが、単なる相性の問題なのか、イタリアの血なのか?やはり私にはそんな見極めは出来ない。
 ところで、今日の会場はイズミティ21だった。仙台フィルの本拠地、青年文化センターが改修工事で使えないからということで、昨秋からここを会場にしている。来年度の定期演奏会は、青年文化センターに戻るそうだ。改修工事なんて永久に終わらなければいいのに、と思う。ほどほどに人数が入り、オーケストラの音が(特別良くもないけど)適度に響いて飽和せず、空調装置の変な音もないイズミティは、東北大学萩ホールとともに、今の仙台においては最高のコンサートホールだ(参考→仙台のコンサートホール問題)。ホールはオーケストラという楽器の一部だ、ということはよく言われる。私もそう思う。フル編成のオーケストラが音を出すには明らかに狭くて響きすぎる青年文化センターで演奏することに、音楽家たちがなぜ耐えられるのか、私には分からない。ずっとイズミティでいいよ。