師は超えた!

 わずか10日ぶりで仙台フィルの演奏会に行った。指揮者・山田和樹がミュージックパートナーとしての任期を終える最後の演奏会だ、というのと、多分時間の取れる日だろうと思って、行くことにしていた。
 国内でも海外でも「山田和樹山田和樹」。今や「100年に1人」のバッティストーニどころか、ニューイヤーコンサートに登場したドゥダメルを脅かすくらいの超売れっ子である。私は概して、みんながいいと言うものをあまりいいと思わない。天の邪鬼である。その私としたことが、初回(→こちら)こそ物足りなく思ったものの、2回目(→こちら)にはすっかり感心し、3回目(→こちら)には圧倒され、これは本物ではあるまいか?と思うようになっている。
 まだ「超」が付かない「売れっ子」だった時期に、「ミュージックパートナー」というそれまで存在しなかった地位を作って、3年契約を結んだ仙台フィルは偉い。が、その契約が満了となれば、もうなかなか仙台になんか来ないだろうなぁ、来年度の定期演奏会のメンバーにも入っていないし・・・そんな思いで会場に足を運んだ。そうしたところ、入り口でもらったプログラムには、山田和樹指揮による10月の演奏会のチラシが挟んである。あれれ、なんだこりゃ!?
 今日の曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と交響曲第5番。
 チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、以前は演奏会のプログラムで本当によく目にしたが、最近はほとんど見ない。なぜだろう?私がこの曲に引かれてチケットを買わないから、というだけかな?
 音楽を演奏することが肉体労働だということを、これほど実感させてくれる曲は他にない。正にピアニストがピアノという複雑巨大な楽器とオーケストラと格闘しているという感じだ。今日のピアノ独奏は、肉体労働とは縁もゆかりもなさそうな大和撫子萩原麻未。これは山田の指名らしい。山田はプレトークで、「予定調和でない演奏が出来ると思う」と言っていたが、本当にその通り。ピアノとオーケストラが対決し、自分こそが主役だと自己主張しながら盛り上がっていく感じ。大和撫子によくこんな力業ができるものだ、という驚きのような当惑のような気持ちも大きかった。
 アンコールは、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のガボットラフマニノフ編曲)。脂ぎった料理の後に、とてもすっきりとシンプルなデザートが出た感じで好印象。全曲聴いてみたいな。
 交響曲は名演であった。山田和樹という人は、曲だけではなく、オーケストラを本当によく掌握していて、精一杯自分の意思を伝えようとしているのがよく分かる。オーケストラの方でも、山田と一緒に演奏するのが楽しく、夢中になって音を出している感じがする。指揮者が細部に至るまでしっかりとコントロールしながら、オーケストラは命令に服従しているのではなく、自発的に従っているように見えるという点で、バーンスタインの演奏に通じるものがある。見事に統率されたオーケストラが、全身全霊で奏でている音楽の力は強烈だ。
 プレトークによれば、山田は東京でこの曲を演奏しないことにしているそうである。なにしろ、山田の師・小林研一郎にとってこの曲は十八番中の十八番。師がいる場所でこの曲を演奏する気にはとてもならない、ということらしい。確かに、小林研一郎という人は、レパートリーを広げていくよりも、気に入った同じ曲を繰り返し演奏し続けた人である。中でも、この曲を好んだというのは有名な話だ。私も仙台で、小林がブダペストフィルハーモニー管弦楽団を振ってこの曲を演奏するのを聴き、感動したことがある(1983年1月20日)。だが、山田指揮の5番が、小林のそれと比べて劣っているとはもはや思わない。むしろ、小林の十八番を色あせさせてしまうほどのものだ。山田は謙遜によって「演奏しない」と言っているのだろうが、実際には、師の顔をつぶさないための配慮になっている。いや、これは「出藍の誉れ」であって、師としても喜ばしいことだと思うけど・・・。
 アンコールにはアサラシヴィリという人の「無言歌」が演奏された。私は、会場を出る時に掲示でその曲名を知ったのだが、聴いている時には、あまり質の高くない歌謡曲の編曲かと思っていた。あの5番の後に、これは蛇足だった。