震災の教訓継承

 一昨日4月3日、朝食の最中に、子供たちが「あっ!鳴いた鳴いた!!パパ、ウグイス鳴いたよ!」と大騒ぎをした。とうとう初鳴きである。私は何か他のことをしていて気付かなかったし、その後すぐに家を出てしまったので、残念ながら直接聞くことは出来なかったが、子供たちの無邪気な喜びようを見ていて明るい気分になった。スマホの画面をのぞきながら何とかいうキャラクターをゲットしたと言って大騒ぎしたり、ペゲーロがホームランを打ったと言って興奮しているよりは、よほど健全な喜びである。ウグイスに興奮する子供たちが、なんともいとおしい存在に見える。
 私が自分でその鳴き声を確認したのは今朝である。ただし、我が家の周りの茂みではなく、少し遠い。早く、我が家の中で鳴いているかのような近い声を聞きたい。
 さて、3月12日の記事(→こちら)で予告してあった私の投書が、今朝の河北新報に載った。以下の通りである。


 「東日本大震災から6年余りがたった。今でも震災関係の報道に接しない日はない。中でも「記憶を風化させない」「教訓を伝えよう」という論調は多い。私はその論調に違和感を覚える。震災の教訓とは「津波は怖い。少しでも早くより高いところに逃げろ」といったことだろうか? 違うと思う。本当に大切な教訓は「私たちは過去の津波からなぜ教訓を受け継げなかったのか」ということだ。
◇   ◆   ◇
 昔の人々も教訓の継承に努めようとした。三陸各地には数多くの石碑や伝承が残る。震災後、改めて注目を集めた吉村昭三陸海岸津波』は、初版が1970年に出た。NHKが「三陸津波 忘れられた教訓」という特集番組を放映したのが81年。「津波てんでんこ」を広めた故山下文男氏が『哀史三陸津波』を出版したのは82年。山下氏は岩手県の海岸に津波博物館を建設するよう訴えて奔走しつつ、95年には『写真と絵で見る―明治三陸津波』も出版した。だが、山下氏の努力は「残念ながら結局は私のひとりよがりに終わってしまった」(『哀史三陸津波』再版序)。
 この間、84年には宮城県唐桑町(現気仙沼市)に津波体験館がオープン。2006年には気仙沼市のリアス・アーク美術館が「描かれた惨状―風俗画報に見る三陸大海嘯の実態―」展を開き、明治三陸津波の死者数と同じ2万7122の紙人形を展示して、人々に津波の恐ろしさと備えを訴えた。探せばまだまだ見つかるだろう。
 しかし、それらの情報に接し、わがこととして受け止め、備えをした人は少なかった。人は、絶えず歴史に学ぶという問題意識を持っていなければ、何を見、何を聞いても、そこにどのような情報があるかに気付くことはできない。その結果が、東日本大震災における1万8446人の死者・行方不明者だ。
 自分が体験したことを人に語る作業は、実に簡単である。例えは悪いが、子どもが外で珍しいものを見て、家に帰ってから親に話したがるのと同じことだ。しかし、過去の出来事を調べ、そこから教訓を引き出すこと、すなわち歴史を学ぶことは難しい。謙虚な心と、忍耐とが必要だからである。
 東日本大震災は、歴史を学ぶことの大切さに気付く最大のチャンスだった。被災した私たちがそれに気付けなければ、後世の人にもできないだろう。津波だと言えば、津波のことしか考えられないのも困る。過去には、他にも非常に多くの学ぶべき教訓がある。
◇   ◆   ◇
 教訓を伝える方法ではなく、なぜ教訓を受け継げなかったのかを、社会全体でもっともっと真剣に考えたい。先人の言葉に謙虚に耳を傾けずに、自分たちの言葉だけを人に聞いてもらおうとするのはやめよう。そして、津波の教訓を受け継げずに被害に遭ったという激しい後悔こそを教訓として語るべきである。私たちが歴史から学ぶことについての高い意識を獲得し、その裏付けを伴って自分たちの体験を語る時、初めて教訓の継承は可能になるのではないだろうか。」


 実は投書のタイトルというのは、自分では付けさせてもらえない。新聞社が付ける。もちろんプロの仕事なので、下手に私が付けるよりもいい可能性が高いが、それでも、執筆者の意図が誤解される可能性がないとは限らないので、少し不安があった。このことについては事前の連絡もない。
 タイトルは、「震災の教訓継承 歴史に学ぶ意識不可欠」となっていた。これは文句がない。私が心配していたのは、現在の教訓継承のあり方に批判的であることが一目で分かる否定調のタイトルを付けられることである。これなら、タイトルを見ただけでは現状批判であると気づきにくい。
 学ぶという作業の効率や効果が、教える側よりも学ぶ側の意識にかかっていることは、少なくとも何かを真剣に学ぼうとしたことがある人間には、あまりにも自明のことである。そのような原点を、私は常に、あらゆる事象に即して確認していたいのだ。
 投書にも書いたとおり、学ぶべきは津波だけでも、防災だけでもない。今朝の河北には、私の文章の3面前に、この数日来物議を醸している教育勅語の教材使用容認に関する官房長官談話が取り上げられていた。震災の教訓を語る人の何%が、このことについての歴史の教訓を真剣に考え詰めているだろうか?


(蛇足的補足)
記事の中では、旧唐桑町津波体験館が、津波の教訓を伝えようという先人の努力の例として登場するが、実は私は、体験館建設の意図については懐疑的だ。20年以上前に訪ねたことがあるが、あれは観光施設ではあるまいか?一つのものを作っても、どのような意識でそれを作ったかによって、価値(機能)は大きく変化する。