危険を知らないのが最大の危険

 昨日は異動してから初めての出張。7年ぶりで高体連登山専門部常任委員会というものに出席した。文書をもらったとき、県総体の準備にしては少し早いな、いつもは4月の20日過ぎじゃなかったかな、と思ったところで、もしかすると栃木県の事故を受けて何かあるな?と気がついた。
 行ってみると案の定、テレビカメラが入ってる。旧知の面々とは違う知らない人が何人か、少し離れた席に座っている。マスコミ関係なのだろう。予定時刻を数分過ぎたところで、登山専門部の部長(形式的責任者である校長)、委員長(実質的な現場責任者である教諭)と、やはり知らない人が3人一緒に入ってきて会が始まった。後から入ってきた3人は、宮城県教育庁スポーツ健康課の課長をはじめとする偉い人たちらしい。
 もちろん私は知らなかったが、事故の直後から専門部の内部ではいろいろな議論が行われ、宮城県もしくは登山専門部としての対応を練ってきたようだ。
 マスコミによる報道も、県による発表もあるだろうし、私がここで議論の詳細を書くわけにはいかないが、出てきた通知の原案を見てあまりにもひどいと思ったので、私はやむを得ず、次のような発言をした。


「学校の教育活動の萎縮傾向がひどい。誰も自分の首をかけてまで山に登らせたいとは思っていないのだから、危険度をさらに下げようとして、部活の内容がレベルダウンすることのマイナスの方がはるかに大きい。ビーコンの携帯を義務づければ、実質的に山に入るなと言っているのと同じことになる。どんなガイドラインを作っても、最終的にはその場にいる人間の判断しか頼れるものがない以上、今回の事故をきっかけにして、改めて私たちが真剣に考え、事例や経験に基づいて妥当な判断を下すトレーニングをしていくしかないのではないか。」


 自由な議論ができないということで、途中からはテレビカメラに退室してもらって意見交換を行ったが、最終的には全国高体連の判断を見守る必要もあるので、とりあえず、雪の積もっている山には入らない、という合意ができあがってしまった。蔵王や船形山はダメで、里山だけにしろ、ということである。
 どうも不思議なのであるが、そのような結論に落ち着いていったプロセスを、今どうしても思い出せない。居眠りをしていたわけでもないのに、である。おそらく、このことは、筋道だった議論の積み重ねの上で結論が出たのではなく、世の中に対する「忖度」とか「空気を読む」といった得体の知れないものが、少なからず作用していることを物語っているのではあるまいか?
 会の終了後、何人かのメンバーと私的に話をしたが、皆この合意に疑問を感じていて、少なくとも積極的に正しいとか当然だとか思っている人は一人もいない。なのに、なぜか会議という場では、議論がひどくタテマエ的で、意に反する結論にしかたどり着かないというのはこの世の不思議である。
 危険だからと言ってナイフに触れさせないことで、逆にナイフの使い方を知らず、危険になったとか、清潔を追求しすぎてしまった結果、アトピーやアレルギーが増えてしまったと言われているのと同様、「万が一」を心配して危険の芽を完全につぶしてしまえば、それが「危険というものを知らない」という最も大きな危険を生む。津波の被害に遭えば、津波や防災の心配ばかりしている一方で、機密法にも共謀罪にも無頓着である世間と同様、雪崩だと言えば、雪崩のことしか考えられないのも困る。会の終了後、一部の顧問で自虐的に言っていたのは、雪崩や雷より、顧問の自家用車で引率して事故を起こす可能性の方が絶対高いよな、ということであった。