生活の場としての学校

 4月29日の新聞各紙に、中学校教師の約6割が、過労死ラインを超える長時間勤務をしているという大きな記事が出た。文科省調査による速報値だ。
 私なんかは、「えっ?そんなもんかな?」と少し意外だ。中学校の先生の忙しさというのは尋常ではない。ほとんど全員がクラスの正担任である上、持ち時間数(1週間あたりの授業時数)が多くて空き時間がなく、部活動も担当しており、県によっては給食指導もあるからだ。生徒は、自我が目覚めて、大人の言うことを聞かなくなる年頃でもあり、恋や人間関係に悩む度合いも小学生よりは多いだろう。そこで1人当たり30人とか40人とかを受け持つというのは異常な世界だな、と思う。その点で、彼らの異常な勤務が問題視されるのは、「何を今更・・・」だ。
 もっとも、中学校教師だけではなく、教員の多忙というのは、近年とみに社会問題化していて、いろいろな人が、いろいろな形で声を上げるようになっている。私だって、自分自身は深刻な状況ではないが、一般論として何度となくこの場などで取り上げている。
 今日はそんなありふれた話はしない。少し違う角度から考えてみる。
 中学校ほどではないにしても、高校でも多忙化はひどいとよく言われる。実際、宮城県で数年前から始まった「在校時間記録簿」による実態把握でも、過労死ラインを超えている人は少なくない(今データが手元で見当たらないので、具体的に書けない)。だが、職員室で同僚たちを見ていて、残業時間を出来るだけ少なくしたいと思っている人がどれだけいるか?と思うことは多い。本当は早く帰りたいのに、やむを得ず仕事をしているのではなく、ただなんとなく居残っている人や、居残っていることで頑張っているような実感に酔っている人も、相当数いるような気がするのだ。そして、そのような居残り組は、更に、家に帰っても仕方がない、学校の居心地がいいと思って残っている人と、教員なんて長時間勤務で当たり前、そんな仕事だ、と受け入れている人とに分かれる。この認識が正しいかどうかは知らない。
 つまり、長時間の残業をしている人には三つのタイプがある。「本当に忙しくて、帰りたくても帰れない人」、「本当に忙しいのは確かだが、それを抵抗なく受け入れている人」、そして「忙しいかどうかとは関係なく、なんとなく学校にいる人」の三つだ。後の二つ、または一つが、学校という場所の特殊性を物語っているかもしれない。
 学校は仕事場なのか生活の場なのか?学校の特殊性、教員の勤務状況の特殊性というのは、ここから生まれてくるのではないだろうか?
 思えば、学校は何をするための場所だろう?明白そうでいて、よく分からない問題である。教員であれ生徒であれ、誰に尋ねても必ず帰ってくるのは、「勉強する場所だ」という答えである。「勉強」では意味が曖昧だとなると、「教科の勉強をする場所だ」という話になる。が、日本の教員の多忙の要因は部活指導と事務処理だとよく言われる。身なり、通学態度、違法行為への対処、すなわち生活指導に費やしているエネルギーも相当なものだ。進路指導も、日本の学校独特の業務だと言われる。こうなると、教科学習が学校の設置目的だなどという話は、タテマエに過ぎず、学校生活とは生活そのものだ、というのが現実に即した正しい学校観というものであろう。
 だらだらと居残っている教員は、学校とは生活の場である、という学校観を体現している存在だ、ということになるのではないだろうか?どこまでが守備範囲か分からなければ、時間的なけじめもつけにくいのである。
 確かに制度はよくない。4%の教職員調整額を給与に上乗せすることで、残業手当をごまかしてしまうとか、法令上の位置づけが怪しい部活動を、せざるを得ない仕事に仕立て上げるとかいった問題がある。だが、やはり根っこにあるのは、世の中の人々が文句を言いやすい「公」である学校に何もかも押しつけ(責任を求め)、その本来の目的が何なのかを分からなくしてしまったことや、人の善い教員の側でも、それを素直かつ無制限に受け入れてしまったことが、学校を職場ではなく生活の場にし、だらだらと長い超勤状態を作り出してしまったのだ、と思う。日本的な甘えの構造そのものである。
 部活動に外部指導者を入れるなど、教員の負担軽減策は積極的に採ることは必要だ。しかし、一方で、学校とは本来どういう場所であるべきか、その哲学を疎かにして対症療法にばかり励めば、根本的解決も、社会全体の成熟もないのではないか?と思う。