神の秩序と威厳とオルガンと

 4月23日、Eテレで「鈴木雅明 ドイツ・オルガン紀行」という番組が放映された。私は録画しておいて、放映の翌週、それを3回に分けて見、5月2日にもう一度見た上で、昨日まで何回かに分けて更にもう1回見た。バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督であり、オルガン・チェンバロ演奏家鈴木雅明氏が、フライベルク、アルテンブルク、ナウムブルクという三つのドイツの町をまわり、ジルバーマン、トロースト、ヒルデブラントという3人の名匠が作ったオルガン(パイプオルガン)について解説し、バッハの曲を演奏するという番組である。
 ヨーロッパの教会を訪ねると、そこに備え付けられたオルガンの美しさと存在感に息を呑むことが多い。ヨーロッパにおいて、昔、自由七科という基礎教養科目の中で、音楽は理系科目として扱われていたということを、かつて何かの本で読んだことがある。一瞬意外に思うそのことが、オルガンを見ていると納得されてくる。音高はパイプの大きさによって決まるため、オルガンは音楽の持つ数的秩序を外形化させているのだ。そして更に言えば、その数的秩序は神が作り賜うた世界全体の秩序の反映でもある。
 それにしても、これを楽器だと考えれば、ひどく仰々しい。番組の中で鈴木氏も言っていたが、決して持ち運びが出来ない。仮にどこかに移設したとしても、もともと礼拝堂と一体化しているため、空間のコンディションが変わってしまうと、元の通りの機能を発揮できない。この巨大かつ精密な楽器が、同じく鍵盤楽器であるピアノやチェンバロに先駆けて生まれ、完成していたというのは驚くべきことである。
 仰々しいと言えば、楽器としてのオルガンだけではなく、演奏もまた大がかりである。2〜4段の手鍵盤と足鍵盤、数十のストップ(音色を変えるためのボタン)があって、オルガン曲は5声、6声(旋律線が5本、6本絡まり合う)も当たり前。かつて聞いたことがあるのだが、楽器の中で最も暗譜しにくいのはオルガンなのだそうだ。それ故、演奏者の補助者がいて、譜めくりやストップ操作をする必要がある。今はほとんど全て電気仕掛けになったが、昔は、楽器内部に人がいて、大きな鞴(ふいご)を動かし、楽器に空気を送り込まなければならなかった。今回、番組で取り上げられていたフライベルクのジルバーマン・オルガンなんて、大きな鞴が6つ備え付けられていたらしいので、1人の人がオルガンを弾くためには、更に7人の助手が必要だということになる。まるで紅白歌合戦小林幸子である。演奏者1人では何も出来ない。
 もっとも、それだけのシステムを作るだけの価値は、確かにあった。オルガンの響きの荘厳さというのは、人々を宗教の世界で幻惑するための小道具と切り捨てるには、あまりにも激しく感動的だ。
 今回の番組の中で、鈴木氏は3つのオルガンで、大小20近いバッハの曲を演奏した。私が数あるオルガン曲の中でも圧倒的に名曲だと信じている、パッサカリアとフーガ・ハ短調や幻想曲とフーガ・ト短調も演奏してくれた。テレビとは言え、まじめにパイプオルガンの演奏を聴いたのは、本当に久しぶりだったが、とてつもない曲だな、と改めて思った。オルガンという楽器を作ったことも、これらの曲を作ったことも、紙に書いてある記号(音譜)を手がかりに、これほど複雑な曲を、たった10本の手の指と2本の足で演奏することも、全てがとうてい人間業には思えない。番組の冒頭から2曲目でパッサカリアが演奏され、繰り返される低音の定旋律の上に、巨大な伽藍のように音が組み上げられるのに圧倒されていた時、私の脳裏に思い浮かんでぐるぐる回り始めたのは、小林秀雄が『モオツァルト』に引用するゲーテの逸話であった。

「メンデルスゾオンが、ゲエテにべエトオヴェンのハ短調シンフォニイをピアノで弾いてきかせた時、ゲエテは、部屋の暗い片隅に、雷神ユピテルの様に座って、メンデルスゾオンが、ベエトオヴェンの話をするのを、いかにも不快そうに聞いていたそうであるが、やがて第1楽章が鳴り出すと、異常な興奮がゲエテを捉えた。「人を驚かすだけだ、感動させるというものじゃない、実に大袈裟だ」と言い、しばらくぶつぶつ口の中で呟いていたが、すっかり黙り込んで了った。長い事たって、「大変なものだ。気違い染みている。まるで家が壊れそうだ。皆が一緒にやったら、一体どんな事になるだろう」。食卓につき、話が他の事になっても、彼は何やら口の中でぶつぶつ呟いていた、と言う。」