小熊由里子と上野耕平

 とタイトルは付けたが、お二人の間には何の関係もない(と思う)。私がたまたま、この土日に二人の音楽に接したという点で結びついただけである。
 昨晩は、小熊由里子さんというピアニストのリサイタルに行った。例によって、終演後に呑むというのが、目的の半分を占める。
 会場は、主催者である某医師が所有する私的コンサートホール。せいぜい30畳あるかなしかの狭いホールだが、2階分まるまる吹き抜けになっていて、開放感は大きい。スタインウェイの木調のピアノが据えられている。西側の壁は、一面CDラックになっていて、数万枚のCDが並んでおり、2階にも10席ほどのギャラリーがある。常に会場の隅っこで聴くのが好きな私は、この小さなホールでも2階席だ。眺めもよくて最高。私的なコンサートなので、集まったのは20人弱。
 小熊由里子という人の演奏を聴くのは初めて(多分)。プログラムは、前半がバッハのパルティータ第3番、ベートーヴェン「悲愴」第2楽章、シューベルト即興曲第2番変ホ長調シューマン(リスト編曲)「献呈」、後半がムソルグスキー展覧会の絵」、そしてアンコールがドビュッシー「月の光」。
 プログラムにおいても、演奏の質においても、呑み会の前座として扱うにはあまりにも失礼な、よい演奏会だった。もともと舞曲であったことをとても意識したようなバッハの演奏もよかった。シューベルトのいかにもシューベルトらしい感情の揺らぎもすてきだった。「展覧会の絵」は、演奏者ご本人も言っていたが、ラヴェル編曲の管弦楽版に慣れすぎてしまうと、オリジナルのピアノ曲がなんとなく物足りない、と感じるのはよくあることである。ところが、なにしろ普通の民家サイズの小さな会場にスタインウェイの(←問題になるかどうかは?)グランドピアノである。時速80㎞の小学生の球でも、10mの所から投げられたら剛速球、というのと同じ理屈で、迫力があった。オーケストラに匹敵するパワーを感じたのである。重厚な「展覧会の絵」の後に、光きらめくドビュッシーは新鮮。終演後、お酒の席がなかったとしても、満足して帰って来たに違いない。酒席が盛り上がったことは言うまでもない。
 今日は、家に1人だった午前中、4月16日に録画したきり見ていなかった、NHK交響楽団第1855回定期(1月28日)を見た。下野竜也指揮でチェコの現代作品二つと、ブラームスのヴァイオリン協奏曲というプログラムである。
 1曲目、マルティヌー「リディツェへの追悼」。リディツェというのは、第2次世界大戦中、ナチスの親衛隊員が殺されたことの報復措置として、ドイツにより全滅させられたチェコの村の名前だそうである。下野はそのことを最初知らなかったらしい。スコアを見ながら、美しい曲だと思っていて、ある日、曲の背後にある故事を知ってから、音楽が人の泣き声などのように聞こえるようになったそうだ。これは面白い。下野くらいの指揮者でも、音楽それ自体から悲劇性を読み取ることは簡単ではないのだ、ということである。同時に、成立の背景が分かってくると、音楽はいかにもそれらしく聞こえ始める、ということでもある。2曲目以下の感想は省略。
 2時間番組の中で、定期演奏会の録画が終わると、残った時間は「コンサート・プラス」と称して、過去の演奏会の録画や、今の主に若手演奏家によるスタジオ演奏が放映される。この日のそれは、上野耕平というサックス奏者であった。
 私は、サクソフォンという楽器があまり好きではない。チェロとともに、最も音色が人声に近いと言われたりするが、私には人声と言っても「おじさんのだみ声」に聞こえる。消そうかなと思ったが、新聞に埋もれたリモコンを探している間に演奏が始まってしまった。そして、正に度肝を抜かれたのである。
 1曲目はリムスキー・コルサコフ「熊蜂の飛行」(網守将平編曲)、2曲目はバザンの歌劇「パトラン先生」のロマンス(山中惇史編曲)。ピアノ伴奏は2曲目の編曲者でもある山中惇史。「熊蜂の飛行」は、一応、原曲を知っているつもりだったが、冒頭の一瞬以外、全然「熊蜂の飛行」に聞こえない。編曲ではなくて、作曲と言った方がいい。上野もすごいが、山中のピアノも非常に正確で上手い。まるで、非常に質の高いジャズのセッションだった。これをライブで聴いたら、熱狂するだろうな、と思った。一転、2曲目は極上のカンタービレ。上野の最弱音は驚異である。有音と無音の境界線上を、とてもスムーズに行き来して圧巻。激しくテンポの速いノリのいい叫ぶような音楽も、その正反対の繊細な歌も、私はどちらも完璧ですよ、と自己主張するためであるかのような選曲だった。もちろん私は、「サックスは・・・」などという気持ちをけろりと忘れて、よだれを流さんばかりに見入っていたのであった。びっくり!!