野口 英世

 野口英世という名前は、小学校の頃から知っていた。なにしろ、私は宮城県で小学校を出ているが、宮城県の小学校は修学旅行で会津地方を訪ねる。野口英世生家はその訪問先として定番だった。また、私は、小学校時代、伝記というものを読むことが大好きだったので、ポプラ社だったか偕成社だったかの偉人伝でも、『野口英世』を読んだことがあった。
 しかしながら、貧しい家庭に生まれ、幼い時にいろりで左手に大やけどを負ったが、その後の治療と不屈の精神力とによって医者になった、という美談や、字のよく書けない母親が書いた素朴極まりない手紙によって、道徳的なヒーローとしての存在感ばかりが強かった感じがする。実は、どれほどの業績を上げた人かということが、よく分かっていたとは言い難い。
 私が野口英世という人はとてつもない偉人だったのではないか、と思うようになったのは、教員として就職する直前、中南米を駆け足旅行していた時である。メキシコで、エクアドルで、ペルーで、私は何度となく「ノグチ通り」「ノグチ病院」を目にしたのである。その後人質事件があったリマの日本大使館近くのノグチ・ホスピタルは、特に巨大だったと記憶する。私は、中南米における野口英世評価に驚くとともに、野口英世という人は研究の場が海外にあったために、真価というものがさほどよく認識されてはいないのではないか?と思うようになった。
 とは言え、その後教員となった私は、多忙の中で次第に中南米で感じた野口英世に対する関心を失い、いつの間にか30年が過ぎた。そうしたところ、先週の初め頃、塩釜高校東キャンパスの図書館で、書庫を物色していた時、『正伝 野口英世』(北篤著、毎日新聞社、2004年)という本を見つけ、にわかに野口英世に対する関心がよみがえってくるのを感じた。私は借りて帰り、県総体の移動の時間などを使って読んだ。
 研究実績についての説明がまだまだ薄いとは感じたが、ともかく、野口英世の生涯とはこのようなものであったか、との感慨はあった。人間離れをした根気と集中力を持ち、人の何倍にも当たる努力を重ねた末に、国際的な評価に値する研究成果を続々と生み出したこと、ほとんど高等小学校卒という学歴ながら、ロックフェラー研究所の4人しかいない正員になり、東大や京大からも学位が贈られた上、若くして恩賜賞を受け、学士院会員になったことなど、本当に胸のすくような快進撃だ。決して、幼少期を中心とする美談によって、業績とは関係なく祭り上げられた人物、というのではないのである。しかし、その一方で、破綻的側面もまたそれなりに強烈な印象だ。
 アメリカに渡る直前、留学費用を出してもらうという約束で某女性との婚約に応じ、まずは留学費用300円を受け取る。高等小学校時代の恩師夫人からも200円の餞別をもらった。当時、教員の給料は年に200円に満たなかったらしいので、これら合計500円は、教員の年収のほとんど3年分ということになる。野口はそのほとんどを、出発直前の一夜の遊興に費やしてしまう。友人たちを神奈川第一と言われた料亭に集め、芸者を呼んで大盤振る舞いしたのだ。これを最も極端な例として、類する話は何度も出てくる。一見、非常にまじめな勉学の虫のようでいながら、その放蕩癖はまったく常軌を逸している。
 アスペルガーだな?と思う。特定の興味があることには信じられないほどの熱中を示す一方で、自己中心的であったり、前後の見境のない行動を取ることが多い。アインシュタインエジソンも、スピルバーグイチローアスペルガーだと言われている。アスペルガーは「発達障害」とは言われるけれども、決して悪いこととは言えない。非凡な集中力と持続力がなければ、歴史的な偉業は成し遂げ得ないし、そのような傑出した能力の裏には、物質と反物質のような関係で、同じだけのマイナスがある、ということだ。マイナスを問題視してつぶしてしまおうと思えば、プラスも失われてしまう。
 彼の場合は、そんな支離滅裂な人間性でありながら、通常はあり得ないほど寛容で献身的な庇護者に巡り会い、支援を受けることができたからこそ、プラスの部分が十全に発揮されたわけだ。彼の実力を認めればこそ、庇護者は進んで庇護者になった。だから彼らと巡り会った偶然は、野口の実力のうちである。それでも、実力さえあれば誰でもそのような庇護が受けられたとは思えない。神によって選ばれる「運」が必要だ。だとすれば、何も神は彼の命を51歳で奪う必要もなかったろうに・・・と思う。