ゴンダイさん・・・教師とは?

 火曜日の話、ネットのニュースを見ていたら、「なぜ大空襲で姫路城は無傷だったのか 奇跡の歴史を探る」という神戸新聞の記事が目にとまった。なにしろ、私は姫路城から車で30分弱という所で高校を出ているので、姫路城に対する親近感は並々でない。
 記事を読んでいくと、なんと、知っている名前にぶつかった。黒田権大(くろだ ごんだい)さんだ。珍しい名前なので間違えようがない。私が高校3年生の時の英語の先生である。記事によれば御年88歳ということなので、私が先生に教えていただいていた時は、52歳だったらしい。当時、年齢を聞いていたかどうかは記憶が定かでないが、だいたいイメージどおりだ。「市戦災遺族会会長で高校の英語教諭だった」と紹介されている。空襲で祖父母を亡くされたらしい。姫路大空襲の時、B29の機長をしていたアメリカ人を案内し、なぜ姫路城を空襲しなかったのかを聞き出す役回りで登場している。
 私の思い出の中の黒田先生は、「とてもいい人」だ。授業で、クリスチャンだと自己紹介をされたことも記憶に残っている。一方、こういうことを言っては申し訳ないが、英語の指導者としては三流であった。当時、授業を終えた先生が出て行かれた後の教室で、同級生が「あいつは授業は本当に下手。人間的な魅力だけでもっとるなぁ。」と評していたことを鮮明に覚えている。聴き手の一人としてとても共感したのだろう。授業がいくらつまらなくても、黒田先生の価値は認めざるを得ない。「善人」だとか、「親しみやすい」とかいうだけではない。単なる「好人物」を超えて、人間としての懐の深さのようなものを持っておられる方だと、高校生なりに感じ取っていたような気がする。
 「三流である」と思い出せる英語の授業も、どのように三流だったのかという具体的なことは思い出せない。一方で、先生の語り口や、人間としての存在感は明瞭に思い出すことが出来る。そして、高校卒業後、一度もお会いしたことがない黒田先生の名前を見付けたこと、ご存命であったことが嬉しく、無性に懐かしいと思う。
 このことは、教員の存在価値についてのある考察を促す。思えば、今、高校だけではなく、中学校でも小学校でも、その当時を思い出す時に具体的な授業の様子が思い浮かぶことはほとんどない。基本的に私は授業を受けることが嫌いで、自学自習が基本。教科指導者としての「先生」というのは、分からないところを質問する相手としてのみ価値を感じていた。だから、他の人にも当てはまるのかどうかは知らないが、少なくとも私の場合、先生について思い出すのは、本業である授業ではなく、先生の個性がにじみ出たちょっとした何かの一場面や、先生方の人柄、人間としての雰囲気とでも言うべきものばかりである。
 現在、私も教員という立場にあるが、人間性とか人格というようなものは、どこでどのようにして出来上がるものなのか、てんで見当が付かない。生徒が私の人間性をどのように見ているのかもよく分からない。そのような自分の意思ではどうにもならない、すなわち努力ということが通用しないものこそが、生徒の印象に残り、その後の人生に作用するとすれば、恐ろしいことである。ならば私には何が出来るのか?・・・分からない。どうすれば生徒に影響を与えられるかなどという、相手の顔色をうかがうようなことはせず、正直に振る舞うしかない。結果は?・・・30年か50年もすれば、生徒の心の中で明らかになるだろう。