ダンプ園長逝く

 続ける予定だった函館の話は中断。
 昨日、帰宅したら「ダンプ園長が死んだよ」と言われて驚いた。ダンプ園長とは、かつてユニークな教育実践で全国に名を馳せた石巻の未認可保育園「わらしこ保育園」の園長・高田敏幸氏である。亡くなったのは20日夕刻。享年76歳。
 この保育園については、かつて一文を書いたことがある(→こちら)。東日本大震災を機に閉園したこの保育園で、私の娘は最後の卒園児に当たる。0歳から6歳まで世話になった。息子は1年だけだったかな?以前書いたとおり、私の子供たちがお世話になった頃には、既に栄光の時代は遠く過ぎ去り、園長とその娘が二人で、かろうじてその看板を維持する状態になっていた。かつての破天荒な実践も、園長の高齢化もあって、かなりこぢんまりとしたものになっていたのだろうと思う。
 それでも、その「本物志向」「自然との共生」「潜在的な能力開発」の姿勢は、基本的に変わってはいなかった(だろう)。妻はこの保育園の熱狂的なファンで、私はそれほどではないが、私なりに評価していた。ただし、園長と出合うのが少し遅かった、とは思った。10年か15年早く出合っていれば、度肝を抜かれるような実践を目の当たりに出来たはずだ。
 東日本大震災があった時、我が家の子供は二人ともわらしこ保育園で世話になっていた。震災が起こった時、北上川河口に近いわらしこ保育園がどうしたか、という話も既に書いたので、その詳細についてはこちらを読んでいただきたい。
 震災後、一日も早く復旧させようと言い、その作業を手伝いにも行きかけたのだが、急に園を閉めるという話になって驚いた。その後、代わりの保育園を探すのにバタバタした、ということもあって、幕切れは少し気まずいものになった。後から思えば、園の経営は限界状況に達していたわけで、引き際をどうするかというのは、常に頭の中にあってもおかしくない問題だった。地震津波で大破した園=自宅の修理に取りかかりながら、閉園という選択肢が浮上してくるのは無理のないことだった。
 震災から何ヶ月か経った頃、少し大きな余震があって、津波注意報だったか警報だったかが出た。その時、園長は我が家に避難してきて、一緒に夕食を食べた。実に、その時が、私が園長に会った最後となる。あっという間に6年が経つ。
 私が、ある知人から「園長がステージ4のがんに冒されているらしい」と聞いたのは、確か今年の6月だった。知人によれば、本人は少なくとも外見上あっけらかんとしていて、いつもと変わった感じではない、ということだった。今月初めには、胆石の処置をするために入院したが、数日でそれが終われば退院する、やはり元気だ、という話を聞いた。1度様子を見に行こうと思いながら、「元気そうだよ」という言葉に安心して、足を運ぶのを後回しにしてしまった。
 死んだ後に聞いた話、黄疸と浮腫がひどくなり、市立病院の緩和ケア病棟に入院したのは死の4日前。私が北海道に出かけた直後である。意識ははっきりしていて、身の回りのことも全て自分で出来ていたが、それからあっという間に帰らぬ人となった。
 昨夜は通夜、今日は火葬。27日午後に予定されている「お別れの会」に、部活の都合で私は行けないので、この2日間立ち会っていた。無宗教ということで、僧侶も来ず、読経もなし(なぜか俗名による位牌もどきやろうそく、線香、焼香はあり=笑?)。教え子とも言ってよいような私的勉強会の若い仲間が取り仕切って、簡素で質実な会を進めていた。棺の背後には、わらしこ保育園の卒園式の際に壁を飾っていた、大きな手作りのすばらしいタペストリーが飾ってある。今見ても感動的だ。何から何まで、ダンプ園長らしい破天荒な死後の演出である。
 我が家では、震災翌月の末に娘が卒園=わらしこ保育園が閉園した時、園長から子供たちに記念に贈られた色紙を出してきて居間に飾った。紹介しておこう。

(娘に)「両手ににぎったちくわも 胸いっぱいにかかえたタンポポの花束も わらしこぜんぶを ちょっとひとにも分けてやりなさい  ダンプ園長」

(息子に)「よく食べる人はりっぱな人になる 虫を食べる人は 偉大な人になる  ダンプ園長」

 解説がなければ意味がよく分からない、という人もいるだろう。なんだかただふざけているだけなのではないか、と眉をひそめる人もいるだろう。だが、これはあくまでも私的な贈る言葉である。園長がいて、その人柄があって、子供たちがいて、園長との日常や関係があって、その中にいる人には分かる。いない人には分からない。おそらく、それでよい、教育というのはそうしてしか成り立たないのだから。園長がそう語っているように私には思える。
 極めて特異で個性的で大きな教育者の死である。合掌。