中国民間交流の「生き字引」逝く

 昨日、小澤玲子さんが亡くなったというメールを、ご家族の方からいただいた。おそらく87歳。4年前に初めてこの方にお会いしたときの話を、一度書いたことがある(→こちら)。「日中民間交流の「生き字引」」というのがその時のタイトルである。
 私が自分の研究との関係で、1963年に神戸で行われた中国の合唱曲「黄河大合唱」(1939年、冼星海=しょうせいかい=シエン・シンハイ作曲)の演奏会(実質的な日本初演)について調べていた時、大阪のある合唱団関係の方からご紹介いただいた。
 中国音楽研究会(中音研)というのは、学術団体ではない。ただの、と言っては失礼だが、市民合唱団である。中音研編『新中國の音楽』(飯塚書店、1956年)などという本があったりするものだから、私も最初は学術団体だと思っていた。ところが、学術ルートでいくら探しても、この研究会の正体が見えてこない。不思議に思っていたところ、小澤さんと知り合い、そのお話を直接聞く機会を持つことが出来て、長年の疑問が氷解した。『新中國の音楽』も、飯塚書店の凄腕編集者・矢沢保さん(故人)という方が、ご自身のアイデアで、中音研と関わりのあった方に個別に原稿を依頼してまとめたという素性の本であることが分かった。ともかく、中音研は、1952年11月に「日中うたう会」として発足以来、小澤さんが一貫して代表を務めてきた。解散はしていないとうかがった記憶はあるが、近年は「消滅」と言ってよいような状態になっていた。
 日中国交回復より20年も前の話で、他に類似の、つまり中国の現代歌曲・合唱曲を日本に紹介する団体がなかったこともあって、小澤さんは日本における中国音楽界の窓口と言ってよいような立場に立つことになった。中国音楽家協会からの郵便物など、「日本 小澤玲子様」で届いたと笑っておられた。
 私が千葉県内にあるご自宅で初めてお会いしたとき、既に83歳になっていたのだが、腰が悪い、心臓が悪いと言いつつ、記憶も会話も明晰で、合唱団のことのみならず、日中交流の時代の空気とでも言うべきものを教えて、いや、伝えて下さった。あまりにも体験と記憶が豊かなものだから、ひとつの質問をすると、その回答が数十分にも及び、お話は面白いのだが、答えが何かが全然分からないということになった。メモも追いつかなかった。しかし、そこには間違いなく「時代の空気」があった。それは、文字によっては決して伝えられない性質のものである。
 お会いしたのは2回だけである。しかし、小澤さんも私のことは歓迎してくれているようだったし、私もなんとなく人間として親しみを感じて、ただの学術上の調査対象というに止まらず、電話で近況を語り合ったり、プレゼントのやりとりがあったりという関係を続けてきた。
 学問に関して言えば、小澤さんの証言は貴重で、それによって初めて知ることが出来たことは多いのだが、膨大な資料をお譲りいただいたことも重要である。小澤さんは、戦後の中国音楽に関する新聞記事やパンフレット、雑誌等について膨大なコレクションを持っておられた。それらの多く(全て?)が、現在私の手元にある。加えて、小澤さんは、横浜華僑婦女会にかつて寄贈したレコードや楽譜類も取り戻して、私の元に届けてくださった。特に、中華人民共和国が発足して間もない1951年2月から文革による空白を挟んで1982年10月までの雑誌『人民音楽』(ほぼ全巻)は、私が現代中国というものを実感として把握する上で非常に重要だった。
 戦後の日中音楽交流と言えば、すぐに團伊玖磨芥川也寸志、井上頼豊といったプロの音楽家ばかりが思い浮かぶのが普通だろう。しかし、その背後に一般人による豊かな音楽活動があったということ、その中心に、女学校卒(=大学を出ていない)、ピアノや中国語をほとんど独学で身に付けた優秀な女性指導者がいたということを知る人は、ほとんどいないはずだ。訃報が新聞に出ることもないだろう。しかし、このような人の存在によって、文化というものは支えられ、積み重ねられ、その厚みを増してきたのである。
 私は今までのところ、彼女からいただいた多くの資料を生かし切れていない。そのことに忸怩たる思いを抱きながら、その霊前に手を合わせるしかない。合掌