レニングラード(2)

 演奏に先立ち、パーヴォ・ヤルヴィは若干の解説をした。要点はただひとつ、ショスタコーヴィチはこの交響曲ファシズムを批判したが、ファシズムとは、ナチス・ドイツだけではなく、スターリンソ連もであった、ということである。
 これは目新しい解説ではない。『戦火』にも引く次のような証言がある。ショスタコーヴィチ疎開先であるクイビシェフで彼と知り合った若い女性、リトヴィノワによるものである。

「ドミトリー・ドミトリエヴィッチ(注:ショスタコーヴィチのこと)は私と気心が知れあい、私を信頼するようになると、《第7番》は《第5番》と同様、ファシズムについてだけではなくソビエト体制、総じて全体主義についても描いたと、率直に語ってくれました。」

 この証言は、もっと長い形でローレル・ファーイの『ショスタコーヴィチ ある生涯』(アルファベータ、2002年)に引かれている。それによれば、リトヴィノワは、まだ「気心が知れ」る前の言葉として、上の引用の前に次のような言葉を記録している。

ファシズム、もちろんそれはあります。でも音楽、真の音楽は逐語的にある主題に結び付けられることは絶対にないのです。ファシズムは単に『国家社会主義』を意味するのではありません。この音楽は恐怖、屈従、魂の束縛を語っているのです。」

 ショスタコーヴィチは「音楽で表現できないものなど何もない」と普段から言っていたそうである(たいへん印象的な言葉なので、間違ってはいないと思うが、今どうしても出典を探せない)。「音楽で表現できないものなど何もない」というのは、音楽の抽象性は、音楽を何とでも結び付けることを可能にするということでもある。この交響曲は確かに恐怖、屈従、魂の束縛を語っているかも知れない。しかし、それらの感情をもたらしたものが何かは決して明示されない。だからこそ許される。第7番が書かれた状況下では、ナチス・ドイツの侵攻だというのが模範的解答である。作曲者が心の中でスターリンを思い浮かべ、舌を出していたとしても、である。
 ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(中公文庫、1986年)は偽書であるとの疑いが払拭できない本であるが、それでも、内容的にショスタコーヴィチの本心をよく描いていると思われる。素性が怪しくても内容は真という珍しい本だ。そこには次のようにある。

「第7交響曲は戦争の始まる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃に対する反応として見るのはまったく不可能である。「侵略の主題」は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲した時、私は人間性に対する別の敵のことを考えていた。当然、ファシズムは私に嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。(中略)ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、スターリンだって犯罪者なのだ。ヒトラーによって殺された人々に対して、私は果てしない心の痛みを覚えるが、それでも、スターリンの命令で非業の死を遂げた人々に対しては、それにもまして心の痛みを覚えずにはいられない。拷問にかけられたり、銃殺されたり、餓死したすべての人々を思うと、私は胸がかきむしられる。ヒトラーとの戦争が始まる前に、わが国にはそのような人がすでに何百万といたのである。戦争は多くの新しい悲しみと多くの新しい破壊をもたらしたが、それでも、戦前の恐怖に満ちた歳月を私は忘れることができない。このようなことが、第4番に始まり、第7番と第8番を含む私のすべての交響曲の主題であった。結局、第7番が《レニングラード交響曲》と呼ばれるのに私は反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしているのである。」

 ショスタコーヴィチの作品は、何をどう扱っても、結局のところ、スターリン支配下の恐怖へとたどり着いてしまう。彼がなぜスターリンを恐れなければならなかったのか?理由がないからこそ恐ろしいのである。有名になればなるほど、そのリスクも高まる。スターリンの気まぐれによって、彼はいつ殺されるか分からない。その恐怖を抜きにして作品は書けないが、それが明らかにならないように外見は取り繕わなければならない。
 この屈折!それが彼の作品の苦しさであり魅力である。交響曲第5番や第7番のような、当初から大成功を収め、当局、いやスターリンから評価された作品でさえ、やはりどうしてもそうなのである。パーヴォ・ヤルヴィの指揮ぶりを眺めていることは確かに快感だったのだが、ショスタコーヴィチを聴きながらそんな暢気なことを言っていられるのは、「物足りない」とグチをこぼしている録音のおかげかも知れない。ライブだったら、聴いていてもっと追い詰められるのではなかろうか?番組が終わって「物足りなさ」と向き合っている時、ふとそんな思いが兆した。(完)