同窓会名簿の感慨

 昨日、母校である兵庫県立龍野高校の同窓会名簿というものが届いた。かつて書いたとおり(→こちら)、母校とはすっかり縁を切ったつもり、同窓会費も払ったことのない私であるが、いろいろな人の消息や、母校の卒業生がどんな分野で仕事をしているのか少し見てみたい、といった理由から購入したのである。創立120周年記念ともなると、A4版で800ページを超える大きなものである。
 昨夜から、パラパラとページをめくっていていろいろな発見をし、疑問を持ち、感慨を抱いた。多少のことを書いておこうと思う。
 まずは名簿の冒頭、旧職員のページで、物故者の中に含まれていた3人の先生についてである。
 一人は米口実先生だ。この方は、私に大きな影響を与えた方として、以前書いたことがある(→こちら。また先生の私家集に触発された短歌論を→こちらに)。5年前に90歳であった先生と手紙を交わしたのが最後となった。その後、訪ねることもなく、年賀状を差し上げることさえなかったのは、先生からのお手紙を読んでいて、なんだか先生と私との関係が過去のものなのだ、という気分にさせられたからである。いつ亡くなったかは書かれていない。
 次は木村正士先生。私の地学と物理の先生である。たしか、その後、龍野高校で校長も務められた。私が在学当時は生徒指導部長をされていて、目つきが鋭く、言葉遣いや身なりに非常に厳しい先生であったが、学ぼうとする生徒に対する温かさと、説明の明快さによって、私は敬愛していた。私が、文系理系を問わず理科2科目が必須であった共通一次試験で、物理と地学を選択したことは、私自身の興味関心という問題もあったが、先生の存在も大きかったように思う。ほとんど教科指導でしか接していない先生で、私が「恩師」と呼べるのは、おそらくこの方しかいない。
 もう一人は宮北要先生だ。当時既に退職されていて、講師として来ていた数学の先生である。私が卒業してから36年が経ったのだから、ご存命であれば100歳ほどで、物故者の欄にお名前があるのは当然なのだが、20年前の名簿ではご存命だったので、先生が亡くなられたのを知ったのは今回が初めてである。決して親しみやすい方ではなく、授業も分かりやすかったとは言えないが、独特の雰囲気をお持ちであった。ある日、先生が東北帝国大学のご出身であること、部落解放を始めとする平和運動の活動家でもあることを知り、畏敬の念を新たにした記憶がある。旧制高校旧制大学の出身者というのは一種独特の風格を帯びている。本物の知性を持っていた、ということか。宮北先生といい、米口先生(入学は旧制、卒業は新制)といい、私はそんな方々から直接教えを受けることが出来た最後の世代に属する。その幸運を、今更ながらに思う。
 他にも、よく憶えている何人かの先生が、物故者の欄に名前を移し、あるいは逆に、ああこの先生はまだご存命なのだ、という感慨を抱いた先生もおられる。
 亡くなったと言えば、私の同級生で既にこの世にいない者が13人になった。分母は449だ。果たして13人というのは多いのか、少ないのか?住所「不明」の人も相当数いるが、それらはおそらく調査葉書の返信が無く、生死まで含めて不明と思われるので、もしかすると物故者は13人では済まないかも知れない。身近だった人の死をこれだけまとめて突き付けられると、世の無常というものを感じずにはいられない。合掌。
 卒業して36年という時間は長い。物故者が増えたことももちろんそうだが、住所欄等に「不明」と書かれている人がとても増えた。数えてみたら、108名もいる。24.8%。4人に1人だ。どう考えても地元に残って地域を支えているはずだと思う人が「不明」になっていたり、東大京早慶といった有名大学に進んだ同級生に「不明」が多いとか、そんな中に地元に戻ってささやかな家業を継いでいる人がいたり、いろいろと「意外」が多い。人生の得体の知れなさをよく表しているように思う。母校の人間関係とほとんど縁が切れて長いので、どんな情報も入ってくるわけではないが、それだけに、ほんのわずかな活字の向こうに人生の様々な葛藤とドラマがあることが感じられて、得も言われぬ気分になる。
 名前の欄に不明を表す*がついている箇所がある。かつての名簿と照合してみると、Yという男だ。中学校時代、私に天文学(望遠鏡作り)の手ほどきをしてくれた男だが、高校入学後はさほど仲良くしていたということもなく、卒業後は一度も連絡を取り合っていない。それにしても、名前さえ分からないという扱いはいったい何なのだろう?(続く)