インスタ映えする?

 私は今年、2学年の副担任である。おかげで、12月に修学旅行に付いて行くことになった。担任ではないということもあるし、比較的常識ある生徒がそろっているので、特に気が重いということもない。目的地は定番、奈良、京都、大阪。
 その関係で、夏休み後、自主研修のコースを組むとか、クラス別研修の目的地を決めるとかで、何回かホームルームがあった。生徒がいろいろな資料を見ているのを冷かして歩くのは楽しい。ある時、某女子生徒から質問を受けた。「先生、どっかインスタ映えするとこない?」「えっ?!」
 一瞬、何を言われたのかよく分からなかったが、次の瞬間に思い出した。テレビのニュース番組か何かで、しばらく前に、最近の若い女性(だけではなかったかも…)の価値観として、インスタグラムに写真を投稿して、誰かから「いいね」というレスポンスをもらうことを非常に重要視する風潮がある、写真がインスタグラムで高い評価を得ることを「インスタ映えがする」と言うが、そのためなら高いスイーツやレジャーにもお金を惜しまない、というような話を聞いた。テレビの画面には千何百円もするとかいうパフェと、それの写真を楽しそうに撮って即座に投稿する女性の姿が映し出されていた。
 いったい何なんだろ?と思う。趣味の世界の話なので、とやかく言うこともないのかも知れないが、自分が素晴らしいと思うものを撮って投稿するというのはまだ分かる。しかし、投稿した時の他人の評価を最優先に考えて、食べるものや行く場所を決めるというのは、やはり「倒錯」と言うのではないだろうか?プロの写真家でもあるまいし・・・。しかも、「インスタ映え」はしないが命の維持に大切なキャベツが87円とか、豚肉が100g98円とかで売られていて、さほどありがたがられている風でもない一方で、「インスタ映え」のするケーキやパフェに1000円以上のお金を払って大喜びしているというのは、どう考えても変だ。
 私の親しい友達にはさすがにいないが、何かの都合で仲良くもない人と連れだって食事などに行くと、出てくる料理をほとんど全て写真に撮っているというのを見ることは珍しくない。「それ撮ってどうするの?」と野暮な質問をすると、大抵、フェイスブックに投稿するとか、誰々ちゃんに送る、とかいう答えが返ってくる。友達同士で、いつどんな料理を食べたかお互いに全て知っている、などというのもよく聞く話だ。しょせん他人事だと思いつつ、私はあまり愉快ではない。食べたり呑んだりしながらお話をしているのに、実に落ち着かない。悪いけど「くだらねえなぁ」と心の中で舌打ちをする。例によって、無駄に豊かで暇な世界が生み出した現象の一つだな、と思う。
 京都の古い寺社なんて、どこに行ってもたいてい美しい。堂宇に使われている木が、どうしてあんなにきれいな焦げ茶色になるのだろう?しっとりと柔らかく落ち着いていて、なおかつ輝かしい色の苔が、どうしてどこに行ってもあんなにたくさん生えているのだろう?私はいちいち感心しながら歩いている。それらの美しさの他に、「インスタ映えする」という別種の美しさがあるとはとても思えない。建築や造園、歴史などの学習のために写真を撮るならいいが、美しさそのものが写真に撮れるとも思わない。「インスタ映え」ばかりを気にしながら、目の前の光景に素直な気持ちでじっくりと向かうことが出来なければ、それこそもったいない。
 私はそういうことを穏やかな表現で、多少は面白おかしく、生徒に全否定の印象を持たれないように気を遣いながら話をするのだが、多分、私の本心は分かってもらえない。だって、生活の全てがそういう価値観で満たされているのだから、ね。哀しくもあり、少し気の毒な感じもする。どうして親は高校生にわざわざスマホなんて持たせるのかなぁ?いつも思う。