新聞連載小説『こころ』の授業

 10月以来、2年生の現代文の授業で夏目漱石の『こころ』をやっている。2単位の授業だし、行事等でつぶれることもたびたびなので、なかなか終わらないまま、考査も修了。今使っている教科書には、新聞連載小説であった『こころ』の12回分が載っている。そして行った授業は14回である。なんとか1時間に1回分と思いながらやってきた結果、最後の1回分を残して考査になってしまった。
 『こころ』は定番中の定番教材である。およそ載っていない教科書というのがない。芥川龍之介羅生門』、中島敦山月記』とともに、定番3教材といったところだ。授業で最も扱いやすいのは『山月記』だが、深読みの面白さと来たら、『こころ』の右に出るものはない。教研集会でも、この作品の授業実践についてのレポートが出されると、実践自体よりも、内容解釈について熱い議論が延々と続くことになる。
 一昨年は、『こころ』100周年であった。朝日新聞リバイバル連載をしたことは憶えておられる方も多いだろう。末尾に時代背景や言葉について専門家による解説がついているのも面白く、私は毎日コピーを取っていた。と同時に、それを読みながら、妙にわくわくしている自分に気付いたのである。それはまた、ああ『こころ』は正に新聞連載小説だったのだ、という強い感慨を抱いたことでもある。驚きとも、感動ともつかない気持ちだ。これは、テレビドラマと同じことである。テレビドラマは、毎回いいところで終わる。結末など分かるわけがない。おかげで、視聴者は続きを見たいと思うのだし、次回へ向けての期待感が高まる。『こころ』も正にそれと同様の効果を期待しながら書かれていたのだ。
 小学校から高校まで、通常、国語の授業で小説を扱う時には、三読法というやり方を取る。三読法とは、通読、精読、味読、すなわち、最初に文章全体を通読して概要をつかみ、登場人物や場面設定を把握する、次に、場面展開を意識しながら細部を読み解いてゆき、最後に作品全体のメッセージを確認して自分なりの考えや感想を表現する、という読み方だ。
 私が連載小説であることを強く意識したというのは、同時に、三読法の問題に気付くということであった。つまり、連載小説は、その日の分までしか読むことが出来ない。従って、作品を通読することは出来ないし、どこかを読み解くために、翌日以降の連載分に答えを求めることはできない。精読するにも、振り返る形で読むしかないという制限が加えられていることになる。だとすれば、果たして、三読法で『こころ』を読むことは正しいことなのだろうか?いや、許されることなのだろうか?授業で読む場合にも、連載小説として読むべきなのではないだろうか?そうでなければ、漱石の意図した『こころ』の姿は見えてこないのではないか?
 今回、授業を始めるに当たって、私が試みたのはそのことである。つまり、『こころ』を連載小説として読む。そのために、通読はしない。毎時間、連載1回分だけを読み、同時に精読する。ただし、後から意味が分かってくるというような箇所、その場面の中では何が言いたいのかよく分からない箇所というものが存在するので、その場合は、問題を確認して先送りする。分かったつもりでいた言葉の意味が、後を読むことで違う意味に見え変わってくる場合もある。それも、その見え変わりを大切にする。それが果たして、生徒にとって分かりにくい読み方なのか?新鮮な読み方なのか?それを確かめてみるためにも、とにかく一度そんなやり方を試みてみよう、と思ったのである。
 教科書で読むと、勝手に先読みしてしまう生徒がいるだろうから、一昨年の新聞連載を、毎時間1日分ずつ配って授業をしようか、と思ったが、表記の問題などあって断念した。生徒には授業のやり方や私の意図について説明した上で、先読みをするなと釘を刺した。生徒はおおむね言いつけを守り、その時間の範囲と、既に読んだ分だけに意識を向けてくれたようだった。
 さて、それで上手くいったか・・・?いや、決して「上手くいった」という実感は持てていない。そもそも、2単位の授業で、あれだけ急いだにもかかわらず、1ヶ月半以上かかるというのが決定的によくない。生徒は、かけた時間数ではなく、要した期間で、その長さを把握する。2ヶ月近くもやっていると、どうしても「え、まだ続くの?」となってしまう。同じやり方をしても、4単位で1ヶ月以内なら、まったく違う印象を与えたに違いない。とはいえ、生徒にとってどうだったかとは別に、教員として面白い体験だった。確かに、『こころ』は連載小説なのである。
 塩釜高校は、来週の木曜日から修学旅行。答案も返し終えたことだし、少々無理をしてでも、旅行前の最後の1時間に決着を付けなければ、と思っているところ。連載第12回を必要最低限さらりと解説した上で、Kが自殺したのはなぜか?「もっと早く死ぬべきだのに」は、どのタイミングを考えてのことだっただろう?という、平凡ながらも必要な問いを投げかけ、感想も含めて書いてもらうつもりだ。