修学旅行(1)・・・やっぱり発達障害

 修学旅行に行っていて、昨夜帰宅した。3泊4日、奈良・京都・大阪という定番中の定番である。塩釜高校は1学年10クラスという大規模校だが、うち2クラスのビジネス科は沖縄なので、普通科8クラスでの旅行である。高熱を発して病院に行った生徒なども出て、全体としてはバタバタしていたのだけれど、私が担当しているクラスは無風だったこともあって、お仕事で行った割には、自分自身も楽しめたよい4日間だった。

12月7日(木)仙台10:15→伊丹空港東大寺薬師寺→大津
12月8日(金)京都市内自主研修
12月9日(土)大津→USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
12月10日(日)USJ→海遊館→道頓堀→伊丹空港17:00→仙台 

 仙台空港からの飛行機は、405席のB777−200だった。仙台空港に出入りしている最大の飛行機は270席のB767−300だと思っていたので、驚いた。ちなみに帰りは335席のB787−8だった。さすがに1機で8クラス分も修学旅行用の安い座席は確保できないので、2クラスと6クラス、2便に分けての移動だったが、それでも、6クラス(引率含めて250名以上)の移動が可能なのは、なるほどこのような大型機が飛ぶようになったからなのだな、と納得した。もちろん、この納得は大きな修学旅行団体が乗れるという容量についてだけの納得であって、犯罪的な大量石油消費装置である飛行機が飛んでもよい、修学旅行に利用できてよい、という納得ではない。
 日頃からストレスの材料である石油の大量消費と言えば、予想していたことではあったけれども、保護者による送迎も「すごい」としか言いようがない。行きは平日の朝だったこともあって、同じ電車にそこそこな数の生徒が乗っていたが、帰りは日曜の夜ということで、電車に乗っていた生徒は両手両足の指で数えられるレベルだった。行きだって、某教員によれば半分から3分の2の生徒は保護者の車だったそうだ。それぞれの親がバラバラに20㎞か30㎞、場合によってはそれ以上の場所から車で空港に来る。例によって、私はその無駄な石油消費におののく。
 私が教員になった1989年(平成元年)、既に宅配便は一般的になっていた。宅配便の普及は、旅行時の荷物はチッキ(鉄道手荷物)で送り、駅まで受け取りに行く、という感覚の染みついていた人間にとっては、ある意味で感動的な出来事だった。ところが、1990年に初めて修学旅行の引率をした時、京都の旅館から宅配便で生徒が大量に荷物を送るのを見て愕然とした。生徒によっては、お土産だけでなく、手荷物まで送ってしまい、ほとんど手ぶらで帰ってくる。業者もそれを当て込んで、宿泊最終日の夜は旅館で店開き。トラック1台が宿に横付けでそれを積み込んでいく。それを前に、教員も無批判もしくは無力だ。これまた私にとっては間違った「豊かさ」である。こんなことしていいの?と思った。荷物が増えれば宅配便で送ればいいさ、と言った日には、荷物は際限なく増える。その解決がまた、石油の消費によって支えられる。持てる範囲の荷物に止める。それが消費についての最も合理的な歯止めだし、人間的スケールでの「節度」というものだ。
 USJという巨大遊園地も、当然ながら、私にとってはストレスである。普通の入場券を買うと、大人(中学生以上)で7600円、子ども(幼稚園・小学校)でも5100円だ。家族4人で行けば3万円近い。安い米100㎏よりも高い(!!)。待ち時間なしでアトラクションに乗れるエクスプレス・パスなるものを買うと、更に1人あたり1万円(≒米40㎏)前後もかかる(時期や乗れるアトラクションの数・種類によってかなり値段が違う。これを買って来ていた生徒が少なくなかった。びっくり!)。よほど哲学的に考えられる人間でなければ、価値観というものがメチャクチャになる。それでいて中で行われていることは、信じがたいような乱痴気騒ぎだ。まったく現実離れした様々な装置をファンタジーと称し、それを「夢」だの「ロマン」だの言う人の気が知れない。「夢」というのは、めったなことで殺される心配もなく、食べられない心配もしなくていい、つまりは今の日本の世の中そのものの中に既に成就している、そういうものだ。そのことに感謝し、しみじみと幸福感に浸っていればいいものを、それを「当たり前」と切って捨て、もしくは一切自覚せず、無理に「夢」を探そうとして虚構の世界を築き上げ、そのための浪費(=あくまでも私個人の価値観)を省みることもなく、その異常を疑おうともしない。それがもてはやされ、修学旅行の目的地にまでなるというのは恐ろしい世界だな、と思う。
 楽しく遊び歩く生徒や教員に水を差さないよう、表面的には適当に合わせながら、心の中では常に「間もなく地球も人間もダメになるさ」とうそぶく私がいる。
 暗くグチっぽい話は今日限り。発達障害(→こちら)に免じてお赦しを。