もう山には行きたくない

 日参している塩釜神社でも、ついに「謹賀新年」の看板が出た。そこで、というわけでもないが、年内の出勤は今日で終わりにした。新人大会や修学旅行の振り替えを使うことは義務だという。休暇を取れば、学校にいる時の自分の首を絞めるだけなので、休まない方が楽なのだけれど、制度上そうはいかないらしい。休みを取ったことにして仕事をするという手もあるが、それはそれでなんとなく悔しい。たくさん使い残した有給休暇も、年度ではなく年で計算なので、あと2日で失効。それらの一部を使って、明日とあさってはお休み、ということにしたのである。今日で仕事を終わらせるために、ドタバタと走り回って、最後の最後に、登山専門部からメールで届いていた文書類をプリントアウトした。持ち帰って読むためである(機密文書なんてない。念のため)。
 昨年度末、栃木県で大きな雪崩れ事故が起こり、高校山岳部の生徒と顧問、合わせて8名が亡くなった。今までにも何度か触れたとおり(→例1例2)、その事故を受けて様々な動きがあった。宮城県でも、高校生登山の引率についてガイドラインを作ることになり、議論を重ねてきた。国(スポーツ庁)からも全国高体連からも通知が出て、それを元に調整が行われ、最終的に確定したのが、つい1週間前のことである。少なくとも今の学校にいる限り、積雪期の山に生徒を連れて行くなどということはありそうにないが、2度に及ぶ酒を飲みながらの意見交換(出張扱いではなく、もちろん自費。念のため=こんなことをいちいち確認しなければならないとは嫌な世の中だね。あ、これは世間に対する「忖度」か?)も含めて、議論に参加してきた事情もあり、確認はしておかなければと思ったのである。
 プリントアウトした文書は、補足的な言及があるので必要だったメールの文面まで含めると44ページになった。大きな重複もあるが、とにかく44ページである。もちろん、A4の紙に10〜12ポイントの文字がびっしり並んでいる。
 夕食後、読みながら、私にはもう生徒の引率なんてできないな、と思った。44ページのうち、実際の引率に必要なマニュアル的な部分が、実質で30ページあまり(?)あるのだが、まず私にはそれがおそらく憶えられない。どこかで何かがあった時、「手引き」のどこそこに書いてあることを平居は守っていなかった、と言われないように完全にはできない、ということである。読んでいると、心の底からうんざりする。
 夏山合宿と冬期の山行については、計画書が県の設置した審査会でかなり厳しくチェックされるようになる。今までのように、何かあった時のために受け取っておきます、ではなく、審査の上、修正点の指摘や不合格もあるらしい。チェックはある意味でありがたいことでもあるが、残念ながら、詳細な「手引き」を確認しながら、1ヶ月以上前、もしくは冬期の場合、12月10日までに3月までの計画書を出さなければならないというのは、「昨年と同じ」でなければ非常に困難だ。
 加えて、冬はビーコン(雪崩れ埋没時の発信器)と山岳保険への加入が必須となった。ビーコンは登山専門部で買って貸し出す、という話を聞いたが、山岳保険は当然、各校で加入しなければならない。冬期登山対応の山岳保険は、まだ調べていないけれど、掛け金が非常に高くて保証内容が悪い。生徒に加入させるのもなかなかたいへんだ。
 もともと私が、部活指導って本当に高校教員の仕事なの?という立場の人間だということもあるかも知れないが、ここまでたいへんな思いをして、しかも以前に比べると及び腰でお遊び的な登山体験をさせる意味って何なんだろう?そこまでする必要あるの?という思いをどうしても止めることができない。
 古典の授業で、私はよく感想文というのを書かせる。古典の授業では、原文を口語訳した時点で、理解が完了したと誤解する生徒がたくさんいる(教員の中にもたくさん・・・かも?)。文章を読んでいる以上は、作者のメッセージがどのようなもので、それについてどのように感じ何を考えたか、こそが大切なはずなのに・・・である。そこで、作品を口語訳という言語操作の材料ではなく、血の通った作品として読むために、どうしても口語訳終了後に作文を書かせることが必要になるのである。
 すると生徒は「昔の人は」「今の人は」という表現をよく使う。私は、「本当に“昔の人は”なのか?」と問いかける。たまたま登場人物がそのような人だったのか、「昔の人」が全般的にそのような人だったのか、しっかり見極めなさい、高校生程度の読書量で「昔の人は」と一般化することは非常に危険だ、と訴える。
 なぜこんな話を唐突にしたかと言えば、栃木の事故が私には「栃木のあの事故」に見えて、「高校生の冬山登山」まして「高校生の登山活動」まして「登山」には見えないからである。栃木の事故については、責任者が山の下にいたとか、通信手段が機能していなかったとか、経験の乏しい顧問が最前線にいたとか、いろいろと問題が指摘されている。それらは、その組織とその場にいた人々の問題である。「他人の振り見て我が振り直せ」だから、それを学習材料として、自分たちの行動を子細に点検することは必要だが、それによってあらゆる場面での制限を強化することは下策だ。
 起きる可能性の極めて低い事故の可能性をゼロにするために、登山活動を通して得られる大きな大きなメリットを放棄するというのは、どう考えてもバカげている。もちろん、登山だけではない。東日本大震災以後の、災害対策も同じ。類例はいくらでも探せる。これらのデメリットは、因果関係が確認できないような遠い歪みとして、人間と社会のあらゆるところにより深刻な問題として表れてくるだろう。その点では、トランプ大統領の政策と同じ性質を持つ。