悩ましき完了形

 1年生の授業で『土佐日記』をやっていた。予習していて私が悩んだのは、「年ごろよくくらべつる人々なむ」という一節である。悩んだ結果、何か立派な発見をしたというのではないが、どのように悩んだかを書いておこうと思う。
 私が古典の予習をする時に使っているのは、もう25年ほど前に買った三友社出版という会社の『古典文学解釈講座』という本(全21巻)である。20万円あまりしたと思うが、これは便利!高校教員だけを対象に売られているもので、今は確か4分の1くらいの値段でCD−ROM版も出ている。高校の教科書に採録してある部分(ただしあらゆる種類の国語教科書)だけしか載っていないのだが、その部分について、それ以前に刊行された多くの注釈書・研究書でどのような解説が付されているかを拾い集めてあるのである。つまり、これを1冊持っていると、当該部分についての研究の積み重ねが、全てではないにしてもすぐに分かることになる。『土佐日記』の場合、拾ってあるのは『日本古典文学大系』『土佐日記全注釈』『日本古典全書』『日本古典文学全集』『新潮日本古典集成』の5種類である。教科書会社が編集した教師用指導書よりは、よほど信頼に値する。
 さて、その『講座』で、「年ごろよくくらべつる人々なむ」は「長年の間、親しくつきあってきた人々は」と訳されている(『講座』のオリジナル訳)。実は、教科書の脚注にも同じことが書いてある。「よく」があるから「親しく」の前に「とても」を入れてもいいだろう。紀貫之が土佐の国守の地位にあったのは4〜5年間なので、「長年の間」よりは「数年来」の方がいいようにも思う。
 それはともかく、この一節について研究者たちは「くらべ(くらぶ)」という動詞を問題とし、それについて『大系』『注釈』『全書』『全集』『集成』の全てで注を付けているものの、それ以外の単語についての解説はない。私が悩んでいたのは、誰も触れていない「つる」である。
 普通に考えれば、これは完了の助動詞「つ」の連体形である。しかし、完了形は通常「〜た」「〜してしまった」と訳す。しかし、『講座』の訳によれば、ここでは「長年の間、とても親しく付き合ってきて、今も付き合っている」のである。数年前から今まで親しくしてきたことを、その状態が継続しているにも関わらず完了形で表現していいのだろうか?

(注:英語の現在完了形「継続」用法なら、何ら問題はない。しかし、それによって、『土佐日記』も理解できる、とするのは間違い。言語の構造も、文法体系もまったく別のもので、たまたま「完了」という言葉を用いた点が共通している、というだけだから。)

 もちろん、「完了」という言葉は、後の時代に文法体系を整備する時に、便宜的に与えた呼称であって、最初に「完了」ありき、ではない。しかし、副教材として生徒に持たせている古典文法のガイドブックにも、「とても親しく付き合ってきた」という理解を肯定するためのいかなる記述もない。小学館日本国語大辞典』(ただし旧版)で完了の助動詞「つ」を引いても、「① ある行為が実現したこと、ある行為を実現させたこと、または動作・作用が完了したことに対する確認の気持ちを表す。〜た。〜てしまった。〜てしまう。② 動作・作用が完了したこと、またはある行為を実現させることに対する強い判断を表す。たしかに〜する。ぜひ〜する。」としか書かれていない。
 自分が高校生の時から、私は「完了」って何だろうなぁ?と思っていた。過去形との区別がほとんど付かないのである。私が完了形について「もしかしてこういうことなのでは?」と思ったのは、中国語を勉強するようになってからである。
「病好了(病気がよくなった=少し前までは悪かったのに)。」
「天黒了(空が暗くなった=さっきまでは明るかったのに)。」
「完了」の「了」が文末に着くと、変化を表すことが多い。「病好了」にしても「天黒了」にしても、「なる」という日本語に相当する漢字がないにも関わらず、「なる」と訳してよいのは、「了」が変化を表すからである。完了は変化を表す。こう考える時、過去形と区別が付かないと思って悩んでいた多くの箇所が、自然に理解できることに気付いたのである。いわゆる「完了の助動詞」のあるところが、全て同様に理解できるわけではないけれども、まずは変化を考える、それは理解する上で非常に有効な方法のように思われた。
 そのような考えで、上の一節を改めて見直した時、「長年(数年)の間にとても親しく付き合うようになった人々は」という訳が思い浮かぶ。果たして、このように訳すことは不可能だろうか?よりいっそう自然ではないだろうか?それとも、古典文法の副読本はおろか、『日本国語大辞典』にもない「〜してきた」という訳が、やはり何らかの理由で正しいだろうか?・・・私の悩みはこういうことである。


(補)『日本国語大辞典』で「完了の助動詞」という言葉を引くと、「事態の発生、完了、完了した状態の存続、それらの確証などの意を表す」と説明されている。「事態が完了した状態の存続」を示すのも完了形だとすれば、『土佐日記』の当該箇所の教科書の脚注(『講座』の訳)はそれに該当するようにも思う。ただし、そう説明するための用例は、上記の通り、「つ」の項も含めて書かれていない。もしかすると、その用例は『土佐日記』のこの箇所だけであり、この箇所を解釈するために「事態が完了した状態の存続」なる用法を認めたのではあるまいか?