ラドミル・エリシュカ

 昨年11月28日の朝日新聞、文化・文芸欄に、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカについての記事が載った。見出しには「日本オケ育てた晩成の巨匠」とある。1面の4分の1にも及ぼうかという大きな記事である。
 一読して、この人物に大いに興味を引かれた。1931年生まれ。60歳近くまで、共産政権下のチェコ・スロヴァキアで西側での活動制限を受け、冷戦終結後は西側の指揮者に国内でのポストを奪われ、不遇のまま生涯を終えるかと思われていた。ところが、「すごい指揮者がいる」という現地楽員の情報を発端に、2004年に来日するや、その音楽がたいへんな評判を呼び、2008年から札幌交響楽団の首席客演指揮者、15年からは名誉指揮者となった。2009年NHK交響楽団で演奏したスメタナ「我が祖国」が、その年の聴衆投票で1位を獲得。大阪フィル、読売日本交響楽団、東京フィル、九州交響楽団など、日本の多くのオーケストラを指揮して、圧倒的な評価を得たのだという。そして、10月に行われた札幌交響楽団との最後の演奏会は、2000席が2日間ともほぼ満席。終演後は、総立ちの拍手が20分も続いたらしい。高齢で体調も優れず、今後来日することは不可能だという。
 マスコミ受けする材料がなく、ヨーロッパの田舎で、黙々と地道に音楽活動をしていた。地味な上にも地味な人だが、間違いなく実力はある。私はこういう職人的な人が大好きだ。N響定期演奏会なんて、世界中の名だたる指揮者が入れ替わり立ち替わり指揮台に立っていることを考えると、そこで聴衆から年間1位の評価を与えられることは、想像を絶することだ。
 残念ながら仙台フィルの指揮台に立ったことはなく、私もその演奏に接する機会はなかったが、この記事を読みながら、どうしてもその演奏に接してみたくなった。次善の策として買ったCDは、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」(大阪フィル)と「新世界より」(札響)である。前者は私の評価としてドヴォルザークの最高傑作だから、後者は、このような通俗的と思える曲でこそ本物の価値は表れるだろうと思ったからである。ちなみに、朝日の記事によれば、エリシュカは13年間にわたってチェコドヴォルザーク協会の会長を務めた。
 12月半ば以来、それらを何度か繰り返して聴いてきた。残念ながら、「新世界より交響曲第9番)」は、愛聴盤であるアーノンクールの演奏にはまったく勝てない。決して悪い演奏ではないが、そのあまりにも丁寧で律儀な音楽作りが、楷書で整然と書かれた文章のような、ある種の窮屈さを感じさせる。むしろ、その後に録音されている交響詩野鳩」の方が、演奏として私は好きだ。多少グロテスクさを含むストーリーが、土俗的な雰囲気とよく調和して味わい深い。
 一方、「スターバト・マーテル」は期待に違わぬ名演である。ただし、私が今まで愛聴してきたクーベリックの演奏がまた名演なので、どうしてもエリシュカがいい、とまでは思わなかった。しかし、クーベリックは20世紀の歴史に残る指揮者の一人として高名だし、バイエルン放送交響楽団・合唱団ほか、ソプラノのエディット・マティスなどの演奏者も、世界レベルの一流ばかり。それが、ヘラクレス・ザールを使ってではあるが、スタジオ録音だ。一方、エリシュカ盤は、大阪フィルを始めとしてオール日本人キャスト、西洋の視点から見れば無名の演奏者たちによるライブ録音である。そのことを考えると、「甲乙つけがたい」は十分に偉大だ。
 分厚い低音弦の音に載せて、切々とした歌が聞こえ続ける。改めて「スターバト・マーテル」という曲の力を感じた。以前書いたとおり、私は「レクイエム」によってドヴォルザークという作曲家の価値を再評価し(→こちら)、この曲がそれを決定的にしたのだが(→こちら)、2度、3度とエリシュカの演奏を聴きながら、この「スターバト・マーテル」は、西洋音楽の世界における宗教曲として、バッハの4大宗教曲(俗称)やブラームスの「ドイツレクイエム」に勝るとも劣らない、至高の1曲であると思った。優れた演奏こそが、曲の本当の価値を明らかにする。しばしば感じることであり、このブログの記事の中にも同様のものは幾つも含まれるはずだが、演奏者が誰であるかは意識せずとも、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」のすごさを感じ続けられたのは、やはり演奏のすごさでもあるのだ。
 やはり一度実演に接してみたかった。また、マスコミのいかにも商業的な宣伝に惑わされず、札響がこの指揮者を発見したように、心素直に音楽の価値に向き合いたいものだ、と思う。