那須で問うべきだったこと

(昨日の続き)
 さて、大西先生による那須雪崩事故報告書の件である。
 昨年10月15日に出された報告書の本文は、200ページにも及ぶ大部なものなので、手元には別紙資料を含めても27ページの概要版が配られた。先生は、この概要版では事故の本質が見えてこない、と前置きをして語り始めた。
 話の詳細は省く。概要版に書かれていないとおっしゃる本質が何かというのは、あまりよく分からなかった。先生が力を込めて語られたいくつかの点も、基本的には概要版に書いてあることである。
 1時間ほどのお話が終わった時、司会者が質問を募ったところ、誰も手を上げなかった。私は少しためらった後で手を上げた。私が質問したことについて、先生はしばらく考え込んだ上で答え始めたが、答えが完結する前に中断し、「もう少し考えて、後で答えさせてください」とおっしゃった。その後、私は先生と廊下で立ち話をした。会の中での質問と、廊下での立ち話を合成すると、私が先生に問いかけたのは次のようなことである。


「事故で亡くなった中に先生が1人だけいた。新採用で、もともと剣道をしていたらしいが、登山部の顧問にさせられた。ご本人は、山登りは性に合わないと普段から言っていたそうである。その先生が、誰かの指示で先頭を切って雪の中を登ることになり、雪崩に巻き込まれた。私はこの方が気の毒で仕方がない。
 事故報告書で、このような形で顧問が委嘱されたこと、そもそも教科教育の専門家として採用されている教員が、部活の指導を強いられる必要性がどれくらいあるのか、ということについての検証や問い直しが見られないことは、非常に片手落ちに見える。
 部活動史の専門家によれば、部活はもともと慣習でしかなかったが、現実を前にして制度化されてきたという歴史を持つ。確か、学習指導要領の記述もかなり曖昧で、しっかりした理論的背景を持たず、部活動の既成事実化を前に書かざるを得なくなった、もしくは、国際大会の場における国威発揚という国策や競技団体の圧力によって部活動が存在感を増す中で、書かざるを得なくなった、というのが本当だろう。学校には、部活動の指導者になるために教員になったというケシカラン人が相当数いて、これが学校教育に本末転倒を引き起こしていると思う。一方、文科省の部活動についてのガイドラインを見てみても、宮城県ガイドラインを見てみても、部活動は生徒の自主的・自発的活動だと書かれている。
 確かに、校内に部活動が存在し、校長が顧問を委嘱したとすれば、その枠組みの中だけで考える限り、部活指導は教員の職務の一つであり、責任を持って最善のことをする義務があるということになるだろう。しかし、教育理念やこの世の普遍的真偽とは関係なく作られた既成事実の中で、その組織の理屈に合わせてより積極的に頑張ることだけが求められ、その組織の是非が問い直されないとすれば、戦前の国家体制と同じ危ういものなのではないだろうか?
 今回の出来事は、部活動とはいったい何なのか?どうあるべきなのか?それは本当に教員の仕事なのか?という問い直しをするチャンスだったはずだ。」


 先生は、まず、概要版でない報告書の中では、顧問の委嘱のあり方についてもわずかながら言及がある、としたうえで、その人が顧問をさせられていたことについては問題が大きい、今後補償問題でこじれる可能性も高い、しかし、教員という立場にある以上、その先生の指導者としての責任もまた免れることは難しい、というようなことをおっしゃった。
 インターネットで公開されているとは言っても、PDF200ページの重い報告書を開き、画面上で文字を追うのは難しい。プリントアウトするのも大変。というわけで、どの程度の記述があるかについては、今のところ確かめられていない。ただ、概要版にないということは、扱いとして非常に小さいということ間違いないだろう。
 いくら部活動という組織や顧問委嘱のあり方に問題があったとしても、生徒の側から見れば、亡くなった某先生も、部活命の先生も「顧問の先生」として同じである。先生が「行くぞ」と言えば、たとえその先生がわけも分からず年配者の指示でそう言っていたとしても、生徒は行くしかない。経験も自信もなければ、その先生は引率そのものを断るべきだった。その意味においては、「責任は免れない」も仕方がない。だが、現実問題として、断らなかったのは本人が大丈夫だと思ったからだ、と言い、引率を断るべきだった、と求めるのはあまりにも酷だ。やはり、山岳部の顧問、或いは引率を拒否できなかった先生よりは、まったくの素人に、積雪期の山という特殊な世界で引率や指導を強いるシステムの問題を、より声高に指摘する必要がある、と私は思う。
 いつの間にか身の回りに出来上がってしまう雰囲気というのは恐ろしい。問題に気が付いた時には、その雰囲気の論理に従ったより過激な言動ばかりがもてはやされ、抵抗することなどまるで出来なくなってしまっている。もちろん、これは戦前の日本であり、部活動も同様だ。那須の事故と亡くなった新採の先生との関係は、それを問い直すのに絶好の材料だった。残念ながら、第三者による検証もその点を問いきれなかった。戦争で負けた後に、原因として兵器の性能や戦術、兵士の技能や精神力を問うばかりで、なぜ戦争に向けて進んでしまったかを問わないことと同じである。根は深い。