任光「彩雲追月」または「南の花嫁さん」(1)

 異動の季節である。先月末(30日)、我が塩釜高校でも送別会というものが開かれた。会が始まって早々、K先生が余興としてギターを弾きながら歌を唱った。「南の花嫁さん」という曲である。ご丁寧に歌詞カードが配られたのだが、それを見て私はびっくり仰天。作曲者が「任光」とある。しかも曲が作られたのは「昭和16年」だ。
 一応、中国の現代文化史を学術上の専門としていて、かつて論文の中でこの作曲家に言及したことがある私は、任光が昭和16年1月に死んだことを知っていた。なにしろ、任光という人の生没年は憶えやすい。生まれが1900年で、死んだのは皖南事変という有名な事件の犠牲者としてだったからである。
 皖南事変(1941年1月6日〜)とは、蒋介石率いる資本主義政党であった国民党軍が、統一戦線を作っていたはずの共産党軍(新四軍)をだまし討ちにした事件で、抗日戦争の最中、なんとかして国民党と共同歩調を取り、外敵である日本に対抗しようとしていた共産党の努力が、決定的に破綻した出来事であった。中国の現代史研究者にとって、絶対に忘れることのできない事件であり年号だ。だとすれば、昭和16年(1941年)に任光がこの曲を作ったとしたら、死の正に直前のことであり、遺作であるに違いない。
 任光は、皖南事変で死んだことから分かるとおり、共産党軍に従軍していた。我が家にある任光の伝記(戴鵬海「従石匠的児子到民族号手」。向延生編『中国近現代音楽家伝第1巻』所収)によれば、共産党員ではなかったようだが、1930年頃から死ぬまでの約10年間、共産党サイドで非常に重要な役割を果たした音楽家だ。
 抗日戦争期の左翼系音楽はたいていプロパガンダソング(救亡歌曲と言う)なのに、K先生の歌う「南の花嫁さん」はずいぶん陽気でほのぼのとした音楽だ。歌詞カードによれば、古賀政男編曲、藤浦洸作詞とあるので、曲も改編され、歌詞も元々のものとは全然違うのだろうが、これは本当に任光が作った曲なのだろうか?高峰三枝子が歌っていたようだが、日中戦争、太平洋戦争当時の日本で、左翼系作曲家の作った曲を有名な映画女優が歌っていたなどということがあるのだろうか?
 そもそも、抗日戦争時期の共産党系の音楽というのは、日本で耳にする機会がほとんどない。1949年に中華人民共和国が建国され、日本人の民主的勢力が人民中国に明るい展望を感じていた時期、すなわち、1950年から1970年頃までこそ、それらの音楽は輸入され歌われることがあったけれども、皮肉なことに、日中国交回復と相前後して文化大革命という動乱を目の当たりにし、日本人が中国に幻滅を感じるようになって忘れ去られた。政治的事情だけではなく、音楽そのものの単純さ、つまらなさも忘れ去られた理由としてあっただろう。なにしろ、共産主義中国では、音楽も人民に奉仕するものとして極度なまでの大衆化が求められ、その結果として高度な芸術性は育まれなかったからである。
 さて、せっかくの機会なので、それらの疑問を解決させるとともに、任光という人物について少し解説をしておこう。
 戸ノ下達也『音楽を動員せよ−統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社、2008年)によれば、満州事変から日中戦争に至る時期、すなわち1931年から1945年頃、日本では中国大陸への憧憬や進出を賛美する曲として、「大陸メロディー」が数多く発表され流行した。それらは、内地にいる日本人の異国への憧れやエキゾチズムを刺激したのである。
 音楽の内容は戦局を反映する。当初は「満州もの」「国境もの」、続いて「上海もの」「広東もの」、そして1939年半ばからは徐々に「南進」路線へと進み始めた。その「南進もの」の代表格として戸ノ下氏が挙げる5曲の中に「南の花嫁さん」の名前が見える。「彩雲追月」は広東風のメロディーなのに、戸ノ下氏が「南の〜」を「広東もの」ではなく「南進もの」に分類するのは、あくまでも「南の花嫁さん」という題によるだろう。作られたのは1942年(昭和17年)9月のことであった。ちなみに戸ノ下氏は、「大陸メロディー」作曲者を代表する人として5人の名前を挙げるが、その中には古賀政男も含まれている。
 「梅丘歌曲会館 詩と音楽」というブログの「彩雲追月」というページには、次のような解説がある(典拠は不明)。

「これはもともとは歌ではなくて中国の伝統楽器で奏でられる器楽曲として1935年に書かれたもののようです。ただその美しいメロディに惹かれたか、日本では昭和18年(1943)に古賀政男が旋律に少し手を入れ、藤浦洸が詞を付けた「南の花嫁さん」という歌謡曲として「歌う映画スター」の高峰三枝子によって歌われヒットしています。なぜかこの時は作曲者に古賀政男の名前がクレジットされていて長く彼の作品とされていたようですが、歌った高峰が戦後中国に行ったときにこのメロディが流れているのを聞いて驚き、それから本当の作曲者の名前で紹介されるようになった、と言ういわくのある曲でもあります。」(2007.3.30 藤井宏行)

 なるほど、任光の曲に基づいてはいるけれども、任光が死んだ後に、日本人が改作し、通俗的な歌謡曲として大ヒットした、ということだ。ページのタイトルになっている「彩雲追月」とは、任光が作った原曲のタイトルだ。昭和16年に書かれたわけではない。古賀政男は、原曲の作曲者がどんな素性の人物かも知らず、何かの折に耳にしたメロディーに心引かれて編曲を思い付いたに違いない。藤井氏が「南の花嫁さん」を昭和18年の曲とするのは、戸ノ下氏の指摘と異なるが、You Tubeで昭和45年9月15日放映の「なつかしの歌声」なる番組で高峰三枝子さんが歌っているのを見ると、字幕は「昭和17年」となっているにも関わらず、アナウンサーは「昭和18年」と言っていたりするから、もしかすると、作曲は17年の9月で、新曲としての発表は18年だったのかも知れない。
 You Tubeを探すと、「彩雲追月」も「南の花嫁さん」もたくさん見付けることが出来る。メロディーの違いもともかく、速さがまったく違う。「彩雲追月」は、非常にゆったりとのどかであるのに対して、「南の〜」はやや快活な感じだ。
 私は、任光がこんな雅な音楽を書いていたことを知らなかった。それは私が悪いのではない。今、何冊かの中国現代音楽史のページをめくってみても、かろうじて1冊、夏灔洲『中国近現代音楽史簡編』(上海音楽出版社、2004年)の「器楽創作−中国楽器−合奏音楽創作」の節に「彩雲追月」の名前を見出すことができるだけである。やはり、現代中国で任光と言えば、左翼音楽の重要人物であり、救亡歌曲こそがその本領であると評価され、それ以外の音楽はまったく顧みられてこなかった、ということである。(続く)