遠い南極(1)・・・教員派遣プログラム応募の記

 昨日書いた南極への「教員派遣枠」とは、正式には「教員南極派遣プログラム」と言う。2009年に砕氷艦しらせが新しくなった時、定員が10人増えた。この10人という貴重な枠を誰に割り振るかということが検討された際、学校の先生を南極に連れて行こう、という話になったのである。
 昨年12月に発表になった第60次隊の募集要項には、その主旨が次のように説明されている。

「派遣教員には、この『南極授業』や帰国後の活動を通して、国内の小・中・高等学校等の児童生徒や一般国民に向けての、南極に関する理解向上につながる様々な情報発信をしていただくことを期待しています。」

 説明するまでもないと思うが、ここに言われている「南極授業」とは、衛星回線を利用して南極から行う授業である。更に詳しく、次のように説明されている。

「派遣教員が自身の計画に基づいてコンテンツを作成し、所属校や一般に向けて行う授業です。授業内容は、南極に関係するものであれば、専門教科は問いません。なお、コンテンツ作成は、例年、観測隊の南極行動中における野外観測チームへの同行、設営作業への参加、昭和基地や観測船『しらせ』船内の生活など、同行する観測隊の活動を素材として、自身が現地で映像編集、資料作成等を行い完成させる必要があります。」

 どう考えても、これは文理を問わない雑学者である私のためにあるような企画ではないか。とは言え、さほど大々的に宣伝されているようでもないこの企画を、私がなぜ知ったのか、なぜ南極に行きたいなどと言い出したのか、という点で、あまり軽薄な思いつきだと思われるのも癪なので、いわば「前史」について、少々書いておかないわけにはいかない。

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 私が地理の知識を超えて南極を身近に感じ、関心を持ったのは、中学校1年生か2年生の時である。西堀栄三郎『石橋を叩けば渡れない』(日本生産性本部、1972年)という本を読んだ。確か、父の同僚がこの本を「面白いから読め」と父に紹介し、父が読んだ後、私の所に回ってきたと記憶する。黄色いペーパーバックで、表紙にはペンギンを隣に従えて立つ西堀氏が中央に、そして右奥に小さく初代観測船宗谷がイラストで描かれている。なにしろ、西堀栄三郎氏は初代南極越冬隊長なのである。
 この本は面白かった。私の人生に非常に大きな影響を与えた3冊の本に間違いなく入る。私は西堀教徒になった。1972年初版のこの本は、それから45年を経た今でも新本で入手が可能なのだから、驚くべきロングセラーである。この本を高く評価しているのは、私のような限られた変人だけではないということだ。言うまでもなくこの本には、南極での彼の体験もたくさん語られている。私は「一度南極に行ってみたい」と思った。同時に、南極に関する情報には自然と耳目が向くようになり、意識的にその情報に接するようになった。
 しかし、南極観測隊のメンバーに選ばれることは非常に難しいらしかった。しかも、高校時代、私は自分が理系向きの人間ではないと気づいた。南極に行くためだけに、適性もないのに理系に進むわけにも行かず、仮に無理して理系に進んだとしても、そんな人間に南極への道が開けるはずもなかった。そもそも、南極に行くことがあまりにも非現実的でありすぎて、私は「断念する」などという悲愴な思いを持つこともなく、文学部に進むことにした。
 その後も、南極に関する本を読み、新聞やテレビでの情報にも意識的に接してきたが、それは遙か彼方の美しいものに対する漠然とした憧れに過ぎなかった。これは一種の適応機制かも知れない。本当に行きたいと思えば、行けない現実に直面して苦しむに違いない。だから、自分自身で、南極に行くことを本当の「夢」にしないように制限していた。そんな風にも思われるのだ。(続く)