遠い南極(4)

 私が自ら県に行って交渉したいと言い、校長がそれを了承した時、校長は、「だけど話聞いてもらえるかどうかは分からないよ」と言い添えた。私もそんな気がした。電話をしても、「その件についてはもう校長先生にお話ししてありますから・・・」と言われる可能性が高い、と思った。
 そんな覚悟を持って、翌1月19日、教育委員会事務局である教育庁の教職員課でこの件を担当しているらしい課長補佐T先生に電話をすると、T先生は「お話を聞くことにはやぶさかでありませんが、それ以上のことは出来ないと思います」と言った。私にとっては十分な回答だ。門前払いは避けられた。私は1月22日夕刻に県庁でT先生とお会いすることになった。
 私は何をどのように話すか熟考した。どこで話す時でもせいぜいメモ程度のものしか作ることのない私が、この時ばかりは原稿を作った。私の話を聞いてくれるのがT先生だけなのか、他にもいるのかは分からない。T先生だけだった場合、課長や教育長にも話が伝わるよう、その原稿を置いてくるつもりだった。
 私たち宮城県の一部の教職員は教育庁を、独特のニュアンスを込めて「県庁16階」と呼ぶ。もちろんそれが県庁の16階にあるからそう呼ぶのだが、そこには連日深夜まで仕事が続き、照明が消えない、非常に多忙で過酷な職場だという一種の「恐れ」もしくは「畏れ」の気持ちが込められている。その県庁16階の1月半ば過ぎと言えば、人事異動の調整と高校入試(前期選抜)の準備で、1年の中でも特に多忙な時期であると思われた。言いたいことはたくさんあるが、長話をすると相手に気の毒だし、かえって嫌がられ、逆効果だろうとも思った。私は、自分の持ち時間を15分と決めた。
 ちょうどこの時期、私はたまたまインターネットで気になる記事を見つけた。宮城県大崎市の市会議員・八木吉夫氏のブログで、2011年2月19日の記事だ。タイトルは「教員南極派遣に制度の壁」というもので、大崎市内の某中学校理科教諭が、南極派遣プログラムに応募しようとしたところ、県教委に研修制度や休暇制度がないため応募できない、何とかできないものか、という内容だ。少し引用する。

「私は直に市の教育委員会に連絡を取り確認しましたところ、教育長は是非とも行かせたいが、県教委がどうしても、首を縦に振らないのでどうしようもないということでしたので、私は、あらゆる方面に連絡を取り、何とか打開策を見出せるようにお願いしてきました。応募の締め切りは22日の午後5時です。ブログをご覧の皆様のおかげで、何とか実現できるようお願い申し上げます。」

 おそらく、この市会議員が奔走したにもかかわらず、結局この先生の出願は実現しなかったのだろう。う〜ん、手強い。大崎の市立中学校の教員でも、県の許可が必要だというのも驚きだった。仙台市立高校の教員が出願→参加に成功したというのは、政令指定都市だから県を通さずに済んだ、ということなのだろう。私の緊張はますます高まった。
 22日、指定された16時ちょうどに、私は教育庁教職員課にT先生を訪ねた。応対してくれたのはT先生だけだった。
 私は、自分が教員採用試験を受けた時のことを持ち出し、あえて県をなじることから始めた。

「私は1988年に教員採用試験を受けました。そして、2次試験終了後、私は見聞を広めるために中南米を旅行することにしていました。教育庁に直接出向いて事情を話し、いつまでに帰国すればよいか尋ねたところ、2月1日以降は自宅で待機するようにと言われました。絶対に採用辞退はしないので、少しでも多くの見聞を得るために、3月半ばまで時間が欲しいと頼みましたが駄目でした。私はやむを得ず、2月早々に帰国しました。2月20日過ぎに赴任すべき高校から連絡をもらいましたが、たいした手続きがあったわけではありません。あの時、あと1ヶ月半の時間があれば、私はマナウス(アマゾナス)に立ち寄った上、壁が壊れる前のベルリンを経由し、ソ連を経由して帰国できました。それは教員として大きな財産になっただろうと思います。県はそんな見聞の価値は理解してくれなかったのです。約30年後の今、南極派遣への応募が許可されないことで、残念ながら県の体質はまったく変わっていないのだな、と寂しい感慨にとらわれました。教員の資質の向上を強く言い、そのために反対意見も多い教員評価制度をスタートさせながら、一方で教員の資質向上に直結するはずの南極派遣は理由もなく門前払い。これは一体何なのでしょうか?」

 その上で、県が一人の教員を南極に派遣することが、子どもたちの理科離れ、能動的な学習姿勢の涵養、教員の資質向上、生涯学習の振興など、県が抱える教育的課題との関係でいかに大きなメリットを生むかを訴え、私自身の資質がいかにその役として適任であるかを述べた。私自身の資質というのは、別に私が特殊な能力を持つということではなく、40年間にわたる南極への思い、2冊の商業出版図書が刊行されていること、専門違いではあっても学位を持ち、学ぶことについての方法論は多少身に付けていること、雑学的なオールラウンダーであること、幼少時より登山(=厳しい環境下での野外活動)経験を持ち、教員になってから20年以上登山部の顧問をしてきたことなどである。もちろん、私も必死なので、謙遜などしている場合ではなかった。
 次に、県がなぜ推薦を断るのかという理由について、私の憶測を述べ、それが不当なものであると訴えた。ここはけっこう大切なところである。次のとおりだ。

「県はおそらく、私に推薦を出すことで、来年以降も希望者が続々と現れ、面倒なことになるのを心配しているのではありませんか?そんな心配はありません。なぜなら、まず県からの推薦人数には制限がないので、選考作業が発生しません。推薦に必要な作業は1箇所への押印だけです。派遣枠は全国から最大2名で、応募しても不採用となる可能性が高い上、いくら優れた人物を推薦したとしても、極地研が同じ県から繰り返し取ることは考えにくいと思います。不採用になれば、以後の事務処理、経費負担は一切発生しません。そもそも、今の学校を見ていると、教員にそれだけの気概がありません。」

 そして最後に、「南極への教員派遣が国策である以上、最善の人材を選ぶ権利を国に与えて下さい。」「県が行うべきことは、応募を許可しないことで面倒を回避することではなく、様々な教育的課題との関係で南極への派遣の意義を考えることであり、派遣した教員の持ち帰った知見を県としてどのように活用していくか考えることではないでしょうか?」と結んだ。
 15分の予定だったが、T先生が途中で話をしたりもするので、私が予定した内容を語り終えた時には25分経っていた。T先生は、たいへん誠実に聞いてくれた。そして、「言いたいことは分かりました。しかし、だから推薦しますと私は言えません。ただし、今日出張で不在の課長には必ず伝えます。」と述べた。私は用意して行ったペーパーを置いて退室した。T先生の反応を伺いながら、これで大丈夫だ、とはゆめゆめ思わなかったけれども、やるべきことはやったという気持ちはあった。南極は遠い。(続く)