加害者は誰だ?

 南極のお話は一度中断。

 TOKIOメンバーによる強制わいせつ事件、財務事務次官のセクハラ事件で、被害者を非難する人がいるらしい。それを「ハニトラ説」と言うというのを、私は今日の毎日新聞で知った。「ハニトラ」とは「ハニー・トラップ」、つまり、それらの事件は、被害者とされる人が性的魅力を利用して加害者とされる人に接近しようとした結果であり、女性の側に非がある、という考え方を言うらしい。
 私はそんなことは言う気はない。だが、次官の方はともかく、女子高生がなぜ某君の自宅にいたのかは理解しにくいところだし、そもそも、既に示談も済んだという案件で、いくら有名人とは言えども私的な問題なのに、これほど世間で大騒ぎするのは異常だと思う。ちなみに「キスをした」という内容も、私にはこの大騒ぎに見合うほど深刻なことに思えない。なんとなく上手くいかない世の中で悪者探しに血道を上げる大衆の存在と、インターネットを含むメディアが力を持ちすぎた結果だろう。これはこれで立派な暴力だ。財務事務次官の問題にしても、本人が否定している中で、客観的事実が何なのかを慎重に検討したようには見えず、政治的な事情によって、真偽ではなく世間の顔色を伺い、その納得を求めて決着を急いだようにしか見えない。
 が、今日、「加害者は誰だ?」と題したのは、実はそれらの問題についてではない。一昨日の新聞記事の話。26日に、警察庁が「SNSを使って犯罪に巻き込まれた18歳未満の子どもが前年比77人増の1813人となり、5年連続で最多を更新した」と発表した。「被害者」の最年少は8歳で、96%が女子だという。
 「被害者」がいるからには「加害者」がいる。もちろん、警察庁や新聞社の念頭にあったのは、彼女たちと会って体に触れたり、裸を撮影して公開したり、といったことをした人たちだろう。だが、私の考えは違う。ずばり、加害者は第1に親だ。
 なぜ、子どもたちに気軽にスマホを買い与えるのだろう?彼女たちがSNSに異性との出会いを求めて書き込みをして、それに返信があった人に会いに行ったり、不用意に自分の私的情報を公開したりするのは、スマホを使いこなせていないということである。すぐ目の前の小さな画面の中だけを見て、周りが見えない状態で「面白そう」と動いてしまう。そういう未熟な人間に、スマホなどという物を与えるのは、非常に危険なことだ。8歳の子どもにスマホを持たせている?なぜ持たせた人の責任は問われないのか?それが許されるなら、なぜ車の運転は認められないのか?どこがどう違うのか?
 いつも思うのだが、とても多くの人が、常にスマホの画面を気にしながら生活している。私はそれを見ているのがストレスだ。私は6年前に、7年間使った携帯電話を捨てたが(→その時の記事)、それによって困っていることなんて何もない(→関連記事1関連記事2)。ただ、ゆったり、のんびりした生活が回復し、ものを確実に憶えるとか、じっくりと考えるとかいう作業がやりやすくなった、というメリットだけがある。「灰色の男たち」(M・エンデ『モモ』)は、「すっかり」とは言えないまでも、少し私から遠ざかって行った。
 スマホ中毒の高校生は、それがなくては生活できない、と言う。営業のサラリーマンでもあるまいし、「なくては生活できない」というのはウソである。勝手にそう思い込んでいるだけである。スマホを買うのは、「便利だから」であり「みんな持っているから」だろうが、今の「便利」は将来に対して「不便(悪)」であり、「みんなが持っている」という相対的な価値判断は、重要な問題であればあるほど、「いい」の根拠にはなり得ない(「他国は既に何度も憲法を書き換えている」という憲法改正論を想起せよ)。
 言葉巧みに凶器を売り込むスマホ会社も加害者である。凶器を放置する社会も加害者である。だが、出資者である親が「子どもがそんなものを持つ必要はない。そんなものをいじってしょうもないことをする暇があったら、しっかり落ち着いて勉強しなさい!」と言えばいいだけの話である。まったくただそれだけ。本当に、まったくただそれだけ。「淫行」に及んだ人たちをスケープ・ゴートにするべきではない。