遠い南極(7)

 私も半世紀以上生きているからには、高校入試以来、選抜試験や資格審査といったものを受ける機会が何回となくあった。しかし、今回の南極派遣選考ほど、結果を待つ時間が長く感じられたことはなかった。それはやはり、自分の南極に対する執着の反映なのだろうと思う。同時に、自分の履歴や情報発信能力から、私が不採用になることなんてあり得ない、という尊大な自信を持ちつつ、少なくとも10倍や20倍にはなるであろう競争率(過去の選考についても非公表)、55歳という年齢、昨年も宮城県の教員(宮城教育大学附属中学校)が参加しているという逆風を意識しては、不採用をおびえる気持ちがあったためでもある。
 募集要項に書かれた「今後のスケジュール(予定)」によれば、「2月14日(水)応募締め切り、審査開始」「3月初旬 書類選考結果通知を郵送」と書かれている。「初旬」というのは「10日までに」ということだろう。県から「書類を発送した」という電話がかかってきた2月2日から、結果を受け取るまでには1ヶ月あまりある。頭がボーッとしてくるほど長い時間に思われた。
 締め切り日である2月14日になった。17時。時計を見ながら、応募者は何人になっただろうか?と思った。
 出願の件は、今回の連載を始めるまでこのブログに書いていない。それは、私の記事を読んで教員派遣枠の存在を知り、私の競争相手として応募に乗り出す人が現れると困るからである(笑)。仕事に目が向いていないみたいで気恥ずかしいので、学校内で公言したりもしていなかった。しかし、仲間内ではさほど隠していなかった。まだ県の推薦がとれるかどうかさえ分からなかった年末、一部の人宛の年賀状には、今年の抱負として南極派遣への挑戦を書いたし、酒の席で近況を語り合ったりしている時の話題にもした。そして、多くの人から「お前は適役だよ」とか、「また『それゆけ、水産高校!』みたいな本でも書いてよ」とか、いろいろな励ましをもらった。
 じりじりとした緊張感は、3月に入ると更に高まった。結果通知はいつ届いてもおかしくない。「郵送」が3月初旬ということは、10、11日が土日なので、9日までに届く可能性が高い。仮に「郵送」が「発送」だとしても、最悪で12日には結果が分かる。結果は推薦者である教育委員会に通知されることになっている。県教委はそれを校長に、おそらく電話で知らせてくる。連絡が来れば、校長からすぐに呼び出しがかかるだろう。私は、職員室で電話の音がするたびに、ビクッとするようになった。県は本当に書類を提出してくれたのだろうか?という疑念も、繰り返し胸に湧き起こってきた。この状態があと1週間も続けば、精神的に参ってしまう。本当にそう思った。
 一方、選考結果については教頭も気を揉んでいた。教頭の大仕事である次年度の校内人事の調整が、大詰めを迎えていたからである。私が11月からいるかいないか分からない、というのは職員の配置を決める上で困ったことである。教頭は「余計なことしやがって」というような顔は全然しなかったけれど、時々「来ませんねぇ」と言いながら顔を見合わせると、申し訳ない気分になった。極地研もそのような学校内の事情は分かっているはずである。だから、通知の時期が「初旬」になっているのだし、だとすれば、「初旬」に発送すればよいというのではなく、「初旬」に届くように発送してくれるのではないか?勝手にそんな想像をしていた。
 3月7日の夜に夢を見た。校長が渋い顔をして目を伏せている。「寝癖の付いているやつじゃないと駄目なんだそうだ」と言う。私には意味が分からなかった。一瞬間をおいて、私は「どういう意味ですか?」と尋ねた。校長は「要するに、若くないと駄目だっていうことさ」と答えた。夢にうなされて目を覚ましたりはしなかったけれども、翌朝目が覚めてから、それを思い出して嫌な気分になった。これは正夢というやつではないだろうか?この日に極地研内部での会議によって、私の不採用が決まった、もしくはその旨の通知を発送した、ということではないだろうか?と思った。
 結局、3月9日にも電話はかかってこなかった。週が明けて12日になっても連絡は無い。4時過ぎになってから、私は思いあまって校長室に確認に行った。確かに、県からの電話はまだ来ていなかった。校長は、私の目の前で問い合わせの電話をかけてくれた。県にも通知は届いていなかった。南極は本当に遠い。(続く)